易経「繋辞上伝」を読み解く41

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易経「繋辞上伝」を読み解く40
易経繋辞上伝第12章第2節「易経は吉凶に拘泥することなかれ」
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易経「繋辞上伝」を読み解く41

子曰く、書は言を尽(つ)くさず、言は意を尽くさず。然らば聖人の意は、それ見るべからざるか、と。子曰く、聖人は象を立ててもって意を尽くし、卦を設けてもって情偽(じょうぎ)を尽くし、辞を繋けてもってその言を尽くし、変じてこれを通じもって利を尽くし、これを鼓しこれを舞(ぶ)しもって神を尽くす、と。(繋辞上伝第12章第2節)

この節「 子曰く 」が2つ節中に登場します。孔子の門人の質問に対し孔子が答えたのであれば前の句の子曰くは不要であります。但し繋辞上伝のこれまで流れから門人とそれに孔子が答えるという体裁をとった章はないので、これは孔子自らの自問自答という体裁で読み解くことが自然でしょう。

「 子曰く、書は言を尽(つ)くさず、言は意を尽くさず。然らば聖人の意は、それ見るべからざるか、と。 」

「孔子易経に思いを致し自らに問う、“易の働きを書物で著そうとしても書き尽くすとことは適わない。言葉で言い表そうとしても言い尽くすことはできない。そうであるならば、聖人のお考えをど後世の人間は理解することはできないのであろうか?”と」

「五行易」もそうですが、こと占術の専門書においても、この世に“秘伝書”というものは出回ることはありません。本当の秘伝は師から弟子への口伝となるでしょうし、それを口にして誰かに伝えた時点で“秘伝”は秘密ではなくなるからです。

また、その秘伝なる物を書物に書き表そうとすれば、およそ一冊の書にまとめることができません。占例一つ上げるだけでも、巡る月日、得卦だけでも64卦あり爻に至っては384爻あり、そこに360日(干支暦の日数)×12か月をかけるだけでも膨大な数になります。ましてや占う事はさまざまですから、とても言い表したり、書き尽くすことができません。

この辺りは、ある程度肌で感じる所であり、口伝にあたっても言外に感じ取る能力や資質が問われるところだと思います。

それに近いことを表すに荘子の中に“輪篇”という寓話を引用します。

『桓公讀書於堂上、輪扁断輪於堂下、釋椎鑿而上、問桓公曰。「敢問公之所讀者何言邪?」公曰「聖人之言也。」曰「聖人在乎?」公曰「已死矣。」曰「然則君之所讀者、古人之糟魄已夫」桓公曰「寡人讀書、輪人安得議乎。有説則可、無説則死。」輪扁曰「臣也、以臣之事觀之。断輪、徐則甘而不固、疾則苦而不入。不徐不疾、得之於手而應於心、口不能言、有數存焉於其間。臣不能以?臣之子、臣之子亦不能受之於臣、是以行年七十而老断輪。古之人與其不可傳也死矣、然則君之所讀者、古人之糟魄已矣。」』(『荘子』 天道 第十三)

(齊の)桓公が書物を読んでいると、車輪を作る老職人が「何を読んでいるんですか?」と聞いてきた。桓公は「聖人の言葉である」と答えた。
職人「その聖人様は生きているんですか?」
桓公「いや、亡くなっておられる」
職人「なんだ、王様は死んだ人の残りかすみたいなものを読んでいるだけじゃないですか」。
桓公は怒って「卑しい身分にありながら学問の何がわかる、返答次第によっては命はないぞ!」というと、老職人は「車輪を作るに、一分の狂いなく合わせる技術は、言葉で言い尽くすことは出来ません。私の息子にも教えることはできませんでした。結局最後まで自分の経験と勘を息子に継がせる事ができず、結果、齢七十の今になっても車輪を作る仕事をしています。さて、お殿様の読んでいる本は、今を生きていない死んだ人の書いたもの。いわば、古人の糟粕ではありませんか?」

したがって孔子もこの問いに対し自らこう答えます。

「 子曰く、聖人は象を立ててもって意を尽くし、卦を設けてもって情偽(じょうぎ)を尽くし、辞を繋けてもってその言を尽くし、変じてこれを通じもって利を尽くし、これを鼓しこれを舞(ぶ)しもって神を尽くす、と。 」

「(孔子が自らが静かに黙考して至った結論は)“聖人(伏羲)は易の摂理を八卦を以て表された。その八卦は天下に起こりうるあらゆる事象や現象の大本を内包している。

また64卦を設けてその表すところ、万物の生成化育と還元再生の働きを形として示された。さらに文王や周公旦によって言葉がかけられて、そこにはもうこれ以上に無いほどに表しつくされている。(そこにこれ以上何を加えようか?それ以上は易を理解し活かそうとする者,感じ取るより他は無いのである)だから、易経を理解しそれを活かそうとする者は、これを変化(変易)させ、その中に変わらない法則性を見出し(不易)、その力をいかんなく発揮させる(易簡)。

時には易占を以て未来を断じ、その指し示す未来を希望として胸に抱いて自らを鼓舞し、自らの本分を尽くすのである”」

この節の最後の現れる「神」は、前節同様「陰陽の作用」と解釈します。従ってさらにこれを「本分」とするのは、陽が陰に、陰が陽にとってかわることはありませんから、占って出た吉凶の断に従って、吉であれば陽の作用、凶であれば陰の作用を持って事を行うという解釈です。

易経「繋辞上伝」を読み解く41-2
易経繋辞上伝第12章第2節をもう少し深く読み込み、孔子が至った心理に迫ってみます
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