秀吉の朝鮮出兵の理由は?

五行易占例
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秀吉の朝鮮出兵の理由は?

歴史の謎に「五行易」で迫る。

今日は、結果として秀吉、及び豊臣家の権威を大きく損ねる結果となった「秀吉の朝鮮出兵」の謎に迫ります。

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、天正20年/万暦20年/宣祖25年

(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である全兵船の3分の1以上を動員して、対馬を侵略した朝鮮による応永の外寇以来の朝鮮半島国家との戦争であった。Wikipedia

秀吉の朝鮮出兵の決断は、老齢にさしかかった秀吉がさらなる権威を求めて暴走した、あるいは老齢で判断を誤った…、愛息であった鶴松が2歳で夭折した、その無念を晴らすため等、諸説があります。

一方で、自ら発した「惣無事令」で大名同士の私闘を禁じたため、その領土拡張を求める諸大名の希望に応える形で決断したとも言われています。

一方で、秀吉の朝鮮出兵は誇大妄想ではなく、当時世界中で植民地を拡大させていたスペインから時刻を守るためのスペインに対する示威行動であったという説もあります

レキシル

秀吉は1587年に「伴天連追放令」を発布、それまで信長が保護していたキリスト教徒を一転して禁止しています。

この背景には、南蛮貿易の権益をめぐる秀吉とイエズス会の思惑の不一致が原因とされていますが、一方でイエズス会が長崎を要塞化しているとの天台宗の僧侶・施薬院全宗の報告を受けた秀吉が、キリスト教宣教師の背後に蠢くスペイン・ポルトガルの意図を察知したのではないでしょうか?

その上で、日本の軍事力を誇示するために、あるいは中国や朝鮮がスペインやポルトガルの植民地化する前に先に押さえておこう…そんな意図があったのかもしれません。

占的「秀吉の朝鮮出兵の意図は?本当に朝鮮や明を征服するつもりであったのか?」

立卦及び卦象

本卦「巽為風」、之卦「雷沢帰妹」を得ました。

本卦は風より変化を象徴。「惣無事令」の発布で戦国の世が終わりを告げて、時代が変わったということ、一方で風は小さな隙間にも吹き込む…という意味から、迷い込む、入り込む…の意味、国内に信者が増えつつあったキリシタンと、宣教師が国内に、長崎を拠点に日本の植民地化を狙っているのではないか?と疑った秀吉の思いでしょうか?

之卦は不正、不義を表して、必ずしも結果は豊臣家に好影響を及ぼしたとは言えなかった「朝鮮出兵」

ただ一方でその想いとは別に隠された真意を伺うとこができる微妙な得卦です。

用神は戦争で官鬼で取ります。

三爻の酉(金)、月併、日併と大変強い爻です。

五爻は秀吉で、この秀吉の巳(火)、用神の酉(金)、初爻の丑(土)で巳酉丑(金局三合)が成立します。

三爻は勾陳を帯び膨らみより大陸を想起。秀吉にしては朝鮮半島攻略を足掛かりに中国大陸進出を本気で考えていた節があります。

一方で秀吉の化出する官鬼は酉(金)ではなく申(金)。ここに朝鮮出兵の目的には別の思惑があったことが想起されます。官鬼には宗教の意味もあり、イエズス会の背後にうごめくスペインの意図を秀吉は察知していたのでしょうか?

上爻の兄弟卯(木)は朝鮮出兵で動員された西国大名。

上爻は日辰から冲を受けて冲散します。ある意味、朝鮮出兵で国力を落すこととなった西国大名。

小西行長

但し動員された大名、小西行長、大友義統等多くはキリシタン大名であり、あるいは直接秀吉と干戈を交えなかっ九州の雄、島津氏は国力を温存したままでしたから、その勢力を弱めることに秀吉が腐心した様子がうかがえます。

二爻の亥(水)が徳川家康。

秀吉とは冲の関係にあり、ライバル同士。秀吉の朝鮮出兵要請に対し、家康転封直後の領国の経営を理由にかわし、いよいよ断れなくなった段階で、肥前名護屋城に赴いて秀吉への忠節の義理を果たしています。

二爻は月建に生、日辰に生を受けるので、結果として国力を損ねることのなかった家康が、秀吉の死後天下の足がかりを得た様子が暦からの好作用に現れています。

秀吉にしてみては、スペイン・ポルトガルへのけん制。国内のキリシタン勢力、島津氏等の有力大名の国力を削ぐ思惑、そして三合形成から朝鮮を足がかり、中国・明の攻略という大戦略に確たる勝算があったようですが、外卦の合住で遠征は滞ってしまいます。

それは自分自身の健康の問題もそうですが、応爻は月併且つ日併と強力です。

頑強な抵抗にあい遠征は頓挫してしまいます。

占断

秀吉にしてみれば、外敵スペイン・ポルトガルへのけん制。国内キリシタン勢力及び島津氏などの国内有力大名の国力を削ぐ…といった目的は果たせたものの海外領土獲得という目的は達せられず。

結果として、豊臣家の権威は落ち、秀頼への盤石な権力移譲が出来ず家康の台頭を招いてしまう結果となったようです。

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