易経「繋辞上伝」を読み解く8
天地の化を範囲して過ぎず。万物を曲成して遺(のこ)さず。昼夜の道を通じて知る。故に神は方なくして易は体なし。(繋辞上伝第4章第3節)
第4章第3節。易経が宇宙の法則で運行されていることを解説します。
天地の化の「化」は「卦」と置き換えても差し支えはないでしょう。
というのは八卦以外の卦は存在しないし、8×8の64卦以外の組み合わせ以外の卦象は存在しないからです。
なにゆえに八卦であり卦象は64卦なのか?それはアラビア数字の「8」を90度回転させれば「∞」の記号になるし、東西南北の「四正」に北東、南東、南西、北西の「四維」を加えれば正八角形となり円に近くなる。
先に挙げた先天図に隠された五芒星と六芒星は、正五角と正六角形に置き換えることができますが、この 正五角と正六角形 を組み合わせると球体が出来上がります。
このサッカーボール、科学の世界では「バッキーボール」と呼ばれエネルギー流路、経路を示すものとして研究が進められている構造体です。この地球も球体ではなく実はこのバッキーボールのような形をしていて、その正五角形、正六角形の線上をエネルギーが走っているといわれています。
日本列島を東西に分かつフォッサマグナや中央構造帯と呼ばれる断層、あるいは各大陸のプレートの間にある海溝なども、遠くの天体からそれを眺めた時、それらを線としてつなげると、サッカーボールのような構造が見えてくるのかもしれません。
先天八卦図に易経上経の経路を矢印に図式したものを上げましたが、こちらは下経の経路を後天八卦図上に矢印で図式化したものです。
平面の図でありながら球面のように見える 当にバッキーボールその物の形が表れます。 そしてもちろんここにも意匠が隠されている。
易経は「読む」ことよりも「感じる」ということの感覚の大切さを感じる瞬間です。
八卦で構成される64卦でなければこの経路は描けません。むしろ、「8×8=64」の数字にも末広がりの「8」と、無限大「∞」の意味が込められている。ゆえにこれが「範囲して過ぎず」で、数こそ64と有限であるが、その秘めた可能性は無限であることを示しています。
「 万物を曲成して遺(のこ)さず。 」
上経、下経の経路をたどったときに現れるシンボルと言い、その易経の示す時空軸、空間軸における視点においてでさえ、一つとして無駄が無く、一つとして漏れがない、まさに「洗練された美」は全てが陰陽の作用で構成されるのですが、陰陽の作用は常に直線的です。
しかしその直線的な作用の組み合わせ、則ち空間軸である「五行(☆)」の作用と時間軸である「天地(✶)」の組合わせで構成される球体をもって、万物を遺漏なく生成し還元する。
「昼夜の道を通じて知る。 」とは陰陽の作用であり全てはそこから生じると、これまでの論の展開を帰納的にまとめます。
「 故に神は方なくして易は体なし。 」
易経は書物としては64卦をもって区切りがつきますが、その解釈は何時、何処、どの卦象から見ても成り立つようにできているいわば球体のようなものです。
孔子の残した論語も「円珠教」と呼ばれ、その時々どこを読んでも何かを感じ得る構成となっていますが、これも易経を習いとしたのではないかと思われます。
易経には聖書の十戒ような「汝○×してはならぬ」のような強い否定は見られず、「○×すれば凶」であるように、その警句は行動を束縛するものではありません。
「故に神は方なくして易は体なし」
宇宙の法則を解き明かしますが、全知全能という絶対的な存在は描かれていません。聖人は登場するが、その聖人が人智を超えた奇跡を披露するわけでもありません。「故に神は方なく」…だから易経には「神」は姿を表さない
バッキーボールを見れば、一面を見れば五角形であり、またある一面は六角形でもある。しかし遠くから俯瞰すれば20角形にも見え、さらに遠くから見ると円にも見える、いわば形であってその形を定義できないことを「体なし」と表現します。
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