易経「繋辞上伝」を読み解く28
道を顯(あら)はし徳(とつ)行(こう)を神(しん)にす。是(こ)の故に、與(とも)に酬酢(しゆうさく)す可(べ)く、與(とも)に神を祐(たす)く可(べ)し。(繋辞上伝第9章第6節)
占筮に対する心構えとは?
前節までの一連の占筮法は、天地創造の法則にのっとり、それを占筮する者が自ら体現することで、当に神人一体となる所に、その妙理があると孔子はこの節で説きます。
ただ思うに、これら一連の占筮法は仏教における読経に似たものが有り、それを繰り返し行うことで「無我の境地」に至ります。とかく占を求める時の人の心境は何かとざわつき、また自ら占いを立てる時であっても、「吉が出ますように」等の願望が入ると出る卦は乱れ、その読み解きが非常に難しくなります。
俗に「腑に落ちる」という表現が当にこれで、心がモヤモヤとしていると、その神意は胸のところで滞ってしまい、からだの中心まで落ちてきません。
その時悟りを求める仏僧が座禅を組み、一心不乱に読経を繰り返すことにより「無我の境地」に至り悟りを得るのと同じく、筮竹を掌中で混ぜ合わせ、両の手で割り数えるという行為はこのような「無我の境地に至る」ための一つの方法としての儀式です。
読経であれば脳裏に響くその軽句に耳を傾ける、筮竹を用いる占筮においては掌中で混ぜる筮竹の乾いた音、またそれを割り数える行為は、いつしか没念と無心に近くなる。その「無我の境地」が立筮、立占においては重要で、本来は手順や作法というものはそれほど重視するものではありません。
「五行易」においては、八面サイコロを用いた立筮方式もあれば、古銭を用いる方式と様々です。
サイコロを用いる場合でも、2個で上卦内卦を出す方式もあれば、六つの八面サイコロを六つに仕切られた小箱の中で振って立筮する方式もありますし、古銭においては3枚を爻ごとに六回に分けて占筮するする方法もあれば、六枚のコインで卦を一遍に立てる方法までさまざまです。
経験則での話になりますが、どの方法で出した卦であっても出た卦が全く意味をなさない「不応」ということはありません。要は筮を立てる求占者、立占者の心持が重要なのです。
「 道を顯(あら)はし徳(とつ)行(こう)を神(しん)にす。 是(こ)の故に、與(とも)に酬酢(しゆうさく)す可(べ)く、與(とも)に神を祐(たす)く可(べ)し。 」
「易の道理を明らかにするためには、君子は身を慎み神人一体の“無我の境地”に致るを要す。この時に徒に私情を挟んではならない。また、出た卦に一喜一憂しその時にとるべき行為をためらったり、り、惜しんではならない。成すべき道は立筮した卦に現れているのだから、君子は其の示された道(宇宙の法則)に順じて、事を行うこと、これが“与天地参”の中庸の道であり、その中庸の道こそが易経のしめす道である」
孔子の示した「中庸」にはこの境地が明快に示されています。
唯(ただ)天下の至誠、よくその性を尽くすことを為す。よくその性を尽くせば、則ちよく人の性を尽くす。よく人の性を尽くせば、則ちよく物の性を尽くす。よく物の性を尽くせば、則ちもって天地の化育(かいく)を賛すべし。もって天地の化育を賛すべければ、則ちもって天地と参すべし。(中庸 第22章) 「天下の至誠を体現した聖人は、ただその天命の性(宇宙の法則=易経の摂理)を察してそれを尽くすものである。自分の性を尽くすということは、他者の性を尽くすということでもある。他者の性を尽くせば、物の性を尽くすということになる。物の性を尽くせば、天地が万物を生成発育させる働きを賛助・促進することができる。天地の万物生成の原理を賛助・促進すれば、天地と共に立って(天地人の三者の均衡を実現して)天命に適うことができる。」
この「無我の境地」に至るアプローチの方法は、儒教と対を成す道教においては正反対のアプローチを求めます。
老子は捨て去ることで「無我の境地」を目指すのに対し、儒教は尽くし、「謙」を重ねることでそこに至ろうとする。
逆説的ではありますが目指すところが同じであります。社会や人間関係をいうものに思いを致す時、孔子の教えは重要であります。しかし、これは大変に厳しくも険しい道であります。それでは老子の道は平坦なのか?
大道は甚だ夷らかなるも、而も民は径を好む(老子道徳経第53章)
もし一人、自然とさえ繋がっていれば十分である…という境地に至れば老子のいう「大道」はあらゆるものを捨て無我に至るという「明確な方法」が示されているだけに、確かに「 夷ら (平)」です。しかし人生は「寄り道」もまた楽しいし、時として必要です。
「 民は径(小道)を好む」…が人間が人間たるゆえんで、そこに一条の光を照らすのが孔子の教えである「儒教」です。また小道に入り込み、迷い、出口を探す。そこに一条の光を示すのが「易経」なのです。
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