易経「繋辞上伝」を読み解く17
鳴(めい)鶴(かく)陰に在り。其(その)子(こ)、之に和す。我、好爵あり、吾(われ)、爾(なんじ)と之を靡(とも)にせん。子曰く、君子その室に居りてその言を出だす。善ければ千里の外もこれに応ず。いわんやその邇(ちか)き者をや。その室に居りてその言を出だす。善からざれば千里の外もこれに違(たご)う。いわんやその邇き者をや。言は身に出でて民に加わり、行ないは邇きに発して遠きに見(あら)わる。言行は君子の枢機なり。枢機の発は、栄辱の主なり。言行は君子の天地を動かす所以なり。慎(つつし)まざるべけんや。(繋辞上伝第8章第4節)
「風沢中孚」の二爻の爻辞を引用して解説します。
「鳴鶴」とは鶴の雛鳥、「在陰」で雛のために餌を探す親鳥の姿。
しかし親鳥は雛に異変が起きた時はすぐに巣に戻れるようにする為に、雛鳥の鳴き声が聞こえなくなる距離まではいきません。雛鳥の鳴き声に応じて親鳥が鳴き声を発するので、雛鳥は安心する。
あるいは巣立ちを迎えた雛がいよいよ巣の外に向かって飛び立つ練習をする時、親鳥はより高い枝や、岩の上に止まり鳴き声を発して子を誘(いざな)う様子を表します。
「好爵 」は「爵位」で取る解釈と、「 爵 」を「酌」の酒杯と取る解釈がありますが、前の句との連続性を考えるならば「爵位」、ただしこれは位階のことではなく、より高い所から子の巣立ちの様子をうかがう親鳥のことであり、「頑張ってここまで飛んでおいで」と誘う様子を例えた物でしょう。
以下孔子はこの引用した爻辞をこのように解説します。
「君子の発する言葉が正しく真理に即したものであれば、たとえその人物と面識のない人であっても共感するし、その人物をより深く知る人であればなおさらである。
逆に道徳に反したものであれば発した人物に面識のない人も、これをごうごうと非難するであろうし、身近な人であればなおさらである。言葉というものは発すればそれを耳にする多くの人に影響を及ぼすし、ましてや(言動を含め)行いは後々に至るまで追及を受けるものである。
君子を目指すものにとり言動や行動は、開き戸の留め金や、石弓の引き金のような重要な物であり、発する言葉やその行いは、後々に至り栄誉に浴したり、恥辱にまみえる原因となる。
たった一言が誰かの心を揺さぶり、一つの行いが誰かの共感を得て天地をも動かす要因となる。君子を目指す者は、よくよくその言動、行動を慎まなければならない」
前回の「風沢中孚」と「天火同人」のつながりを以て読み解けば、良くも悪くも発する言葉や行いが共感を得たり批判を買ったりします。どんなに素晴らしい言葉を発しても、行動が伴わなければ共感者は現れず、たった一人の行動では何も社会や環境に変化を促せません。
陽がどんなに強く、大きなエネルギーを持っていたとしても、それを受ける陰が無ければ何も生じない。自分の考える理想や、崇高な使命があったとしてもそれに共感する人がいなければ、その考えは波及しません。
この節、孔子の引用はその志を打ち立てる「立志」であり、一方でその心構え、及びその言動行動を戒めると同時に、いかに共感者、行動を共にする人と人との繋がりの重要性を説いています。その関係を親と子の関係を例に、「風沢中孚」には子が親の愛を心から求め、親が子を心からいつくしむ様子を引用し、そこに「誠」という「仁」の一端を孔子は見出したのです。
SNSが発達しましたが、ネットの片隅でどんなに声高に危機を論じても、目に触れる機会が無ければその考えは波及しない。「炎上商法」なる半ば禁じ手めいた手法もありますが、その手段は「易的」にみてはなはだ不自然ですから、遠からずその手段は破綻するでしょう。
易経の教えは、まさに高い次元から人間を真理へと誘(いざな)い、そこに到達するべく「卦辞」や「爻辞」をもってその次元へと誘(いざな)う珠玉の言葉の数々です。孔子の生きた時代、SNSなる技術の進歩を想像だにしなかったでしょうけれど、いつの時代であっても血縁と等しく、人と人のつながりが、何か新しい物や、社会のうねりを生じるきっかけとなることに変わりはないのです。
↓繋辞上伝を読み解く18↓
コメント