易経「繋辞上伝」を読み解く37
この故に易に太極(たいきょく)あり。これ両儀を生ず。両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず。(繋辞上伝第11章第5節)
再び易の構成についての解説です。
「 この故に易に太極(たいきょく)あり。これ両儀を生ず。両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず 」
「この故に、陰陽発する大本に“太極”があり、この太極より陰陽の“両儀”が生じ、陰陽の爻にさらに陰陽が交わることで“四象”が生じ、その四象から“八卦”が生じる。八卦に込められた意味や、意義、また掛けられた辞により万物が生成化育する働きを示す“吉”と、還元再生する働きを示す“凶”を定め、その吉凶の作用がこの世界を形作る大いなる業を成しているのである」
易経を「占」という側面からとらえれば「吉凶」は文字通りに捉えて差支え有りませんが、もっと広義で易経をとらえるならば「吉=善」「凶=悪」と誤認しその解釈を誤ります。
宇宙の法則からすれば、その生じる所も、役割を終えたものを還元し次の生のサイクルに活かすことも「善」でありますが、そこには人間的な価値観に基づく“善悪”の意識はなく、“生成化育”と“還元再生”を専らとする宇宙の働きです。
したがって老子が「道の道とす可きは、常の道に非ず。名の名とす可きは、常の名に非ず」と称したように、宇宙根本を表す「太極」も、そこから生じる「両儀」もいわば仮の名で、便宜的に呼称をつけているに過ぎないのです。
占って卦象より導き出した「吉凶」も一時的、便宜的な解釈であり、長い目で見れば凶に、凶が吉にそれぞれ転じるのが易の観点であり、この長期的な視点、考え方に思いを致し、吉凶禍福に一喜一憂することなく、生き方を、すすむべき道を模索していくことが易経を學ぶということでもあります。
「 この故に法象(ほうしょう)は天地より大なるはなく、変通(へんつう)は四時より大なるはなく、県象(けんしょう)の著明(ちょめい)なるは日月より大なるはなく、崇高は富貴より大なるはなし。 」
この故に法象(ほうしょう)は天地より大なるはなく、変通(へんつう)は四時より大なるはなく、懸象(けんしょう)の著明(ちょめい)なるは日月より大なるはなく、崇高は富貴より大なるはなし。物を備え用を致し、成器を立ててもって天下の利を為すは、聖人より大なるはなし。賾(さく)を探(さぐ)り隠(いん)を索(もと)め、深きを鉤(と)り遠きを致し、もって天下の吉凶を定め、天下の亹(び)亹を成す者は、蓍亀(しき)より大なるはなし。(繋辞上伝第11章第6節)
この節は、易経の偉大さを天地日月に例え、その崇高明知を讃えます。
「この故に、目に見える“物”の中において天地よりも広大な物はなく、それを“変化という時間軸”でとらえた時は、春夏秋冬の四季(=四時)を超える時間軸はなく(故に大なるはなく)、天空に浮かぶ日月星辰においては、太陽と月より大きい存在はなく、その崇高さに例えるならば、富と徳を一身に集める天子よりも位の大きい者は存在しない」
ここで疑問に思うのは、“富貴=天子”という概念で、一般的には“天子=皇帝”という解釈が通例です。しかし孔子の生きた時代においては、いまだ始皇帝が登場する時代にさかのぼること300年に及びますから、この解釈は成り立たない。
したがってここは“富貴=天子=皇帝”ではなく、“富貴=文王”と孔子が慕い、その目標とした周の文王(あるいは後代の周の王)と解釈するべきでしょう。それは後に続く句との連続性に確認することができます。
「 物を備え用を致し、成器を立ててもって天下の利を為すは、聖人より大なるはなし。 」
「易の卦に(物)に吉凶(用)を見出し、易占でその卦象( 成器 )を立てて吉凶を断じ、それを天下に(政治や統治に)活かすことができるのは聖人の他にない(大なるはなし)」
周の文王の功績は、衆人に理解しがたい易経を人語に訳したことにあります。
文王の功績を以て初めて衆人は易経という存在が身近に感じるものとなったのですが、一方でその具体的な活かし方がわからない。そこを補完する形で孔子が繋辞上伝を始め、易経の「彖伝」に補足する形で「象伝」を付け加えています。
ここを以て初めて人間は易経の原理摂理を理解するをたやすくするに至りますが、これをそのまま日本に取り入れた所に、易経をして難解と言わしめる元凶があります。
そもそも人間社会とは一定の距離感が存在する所の易経を訳出した文王は、身近な風習を以てそれぞれの卦象にそれを充て表現しました。
しかしこれを和訳し、そこからそれを理解するにあたり、古代中国の風習への精通や理解がなければ、その解釈に苦しむところがあります。それは孔子が付け加えた「象伝」にも同様のことが指摘できます。
ここに読み物としての易経の限界があります。易経を理解するには前提として中国の伝統や風習、もっと極言するのであれば、その行動規範となる「道徳風習」に精通していなければ、読んでいても理解に至らず違和感だけが残るのです。
しかし卦象から感じる所は、易経の“辞”を超越します。物事を断じて易の卦象に思いを致す時、何かを想いそこに占いを以て卦象を立て読み解くとき、文王がかけた“辞”よりも先に“感じる”吉凶の肌感が大切です。
例えば自身の生涯の金運を占って「地雷復」という卦を得たとします。この時、地雷復卦にかけられた“辞”よりも先に、この卦が“日の出”を表す卦であることに思いを致しますと、自身の金運がどのようなものであるか想像できるわけです。
ここで改めて地雷復の卦辞を見ると「復、亨。出入に疾(病)妄し」の文字が見え、お金に苦しむようなことは無い…と具体的な断を下すことができます。
反対に「地火明夷」の卦を得たのであれば、この卦は日没、あるいは待用が地平線の下に没した真夜中を表す卦ですから、放蕩三昧ではお金で身を滅ぼしかねないと、緊張感が走るのです。ここで地火明夷の卦辞、彖辞をみると、彖辞に「以て大難を蒙(こうむ)る」の辞が確認できますから、借りては使うようなことを戒める…と断じることができます。
このように易の卦象を表す物は、必ず自然の現象を卦象として表していますから、かけられた辞よりも先にその卦象が示す自然現象は何であるか想像することで、占った物事の吉凶を想像できるのです。
ここが孔子の言うところの「 成器を立ててもって天下の利を為す 」ことです。
「 賾(さく)を探(さぐ)り隠(いん)を索(もと)め、深きを鉤(と)り遠きを致し、もって天下の吉凶を定め、 天下の亹(び)亹を成す者は 、 蓍亀 (しき)より大なるはなし。 」
「その奥深い所の意義、目には見えないところに思いを致し、深い所に隠れている事象の原因を探り出し、その原因から未来の禍福を想像し、これを以て天下の吉凶(国のかじ取り)を定める。万民が安心して生活を営むことを明確に示すことができるのは、易占(蓍=筮竹、亀=亀の甲羅で亀卜)の他にこれを明確に示す者はないのである」
易占を以て易の卦象を出し、之卦、互卦、綜卦、錯卦を駆使して物事の隠れた原因や、その内包している課題や障害を想像し、またこのまま進めた場合の物事の帰結を、またここ進むべき道を改めた場合の未来を駅の卦象より導き出す。
これは何も天下国家に限らず、個個人にも当てはめることができます。出した卦象は単に「〇」か「×」かにとどまらず、その生き方を左右する。易占は「占い」であって占いにとどまらず、人の運命をも左右する「運命學」たる所以でもあります。
そして、易経は書物ですから文字度居る読む者なのですが、読んで理解するよりも先に、「感じ」理解するという前提無しに之を理解することはできないと思います。
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