易経「繋辞上伝」を読み解く39
繋辞上伝もいよいよ最終章となります。
易に曰く、天よりこれを祐(たす)く、吉にして利ろしからざるなし、と。子曰く、祐(ゆう)とは助(じょ)なり。天の助くるところのものは順なり。人の助くるところのものは信なり。信を履(ふ)み順を思い、またもって賢を尚(とうと)ぶなり。ここをもって天よりこれを祐く、吉にして利ろしからざるなきなり。(繋辞上伝第12章第1節)
この節は「火天大有」の上爻の爻辞の引用で始まります。第八章で「風沢中孚」から「雷水解」までの爻辞を引用して解説しているため、この節もその一部分で朱熹はこの部分の竹簡が誤って第12章に紛れ込んでしまった錯簡であると解釈しています。
第11章で易占の理法であり、その意義を踏まえつつ第12章冒頭にこの節があるのは接続性が感じられないと朱熹は指摘するところですが、原文に従ってこのまま読み進めます。
但し感じる所は、孔子は天には慈悲がある…という観点に立ってここまで論じてきていますので、ここで「自天祐也」の火天大有の上爻の爻辞を引用した孔子の真意は、自らの論をここで補強するために引用したととも考えられます。またそこに、これまで論じてきた所の連続性を見出すことも可能です。
「 易に曰く、天よりこれを祐(たす)く、吉にして利ろしからざるなし、と。 子曰く、祐(ゆう)とは助(じょ)なり。天の助くるところのものは順なり。 」
「易経の火天大有卦の上爻に“天よりこれを祐く、言うまでもなく吉である”という爻辞が掛けられてある。孔子は仰った、“祐とは助である。天は慈悲があるから天道に従う者には、天はこれを助けるのである”」
この辺りは少々宗教的な香りを伴ってきます。
儒教はその考え方は父権的であり、一方で依る所の天には母性を求める…ということは第11章で読み解いてきたところです。現世は修行でありその魂の向上、自らを切磋琢磨することで正道を歩めば天より必ず扶けが得られる…という「希望」を指し示します。
この辺り老子は甚だ現実的で、天に人格は無いから人の方から天に働きかけて、天の法則を知り、その法則を利用することだ…と説きます。
天道無親、常与善人。(天道には情けは無く、常に善の味方である。…老子道徳経79章)
この老子の一節「善人」を善良の人と解釈するとその前後の意味が通らない。したがって「善」とは易経の「吉」と同意で、陽の徳である“生成化育”であると解釈します。
つまり、
物事の発展、成長、向上という働き、その意志を持った者には、宇宙は有形無形の陽の力を以てこれを後押しする。しかし一たび発展や成長止めたり、その活動をやめた存在には一転して“還元再生”の陰の作用を施します。
これは例えば田の畔の草刈りを行っていると歴然としていて、刈るまでは青々と表面に葉の朝露をたたえていた草も、一たび刈られてしまえば一時間もたたないうちにその色は褪せ、みずみずしかった葉も一転して萎れてきます。
草を刈ることで陰陽の作用が切り替わった瞬間を目の当たりにしているわけで、そこには天があいつは頑張っているから応援しよう、怠けているから罰を与えて刺激を与えてやろう…等という意識は存在せず、ただ淡々と生を営む者には陽の精氣を、生を終えた物には陰の精氣を送り込んでいるのに過ぎないのです。
老子はそのことを自らの思索の中で指摘し、それを“無為自然”と総称する。
孔子の歩んだ道は、苦難の連続でありまたその教えである儒教についても受難の歴史を刻んでいます。だから「天は慈悲深く必ず救いの手が差しのべられる」という希望や期待を指し示したい、それを信じたいところは理解できますが、そこに至っては儒教は宗教になってしまいます。
「 人の助くるところのものは信なり。信を履(ふ)み順を思い、またもって賢を尚(とうと)ぶなり。ここをもって天よりこれを祐く、吉にして利ろしからざるなきなり。」
「善良で徳の高い者を人々は助けようと思う。だからこそ、言行一致の徳を積み、また正道を歩み、さらにたとえ自分よりも下位であろうとも、優れた人物であるならば、謙虚に賢人の教えを請う。そのような人物であれば天も必ず救いの手を差し伸べるものだ。言うまでもなく最上の吉である。」
前節で孔子の考え方を少々批判的に読み解くと宣言しましたのでそれをそのまま引き継げば、この句の解釈も淡い希望的観測にすぎない…と切り捨てたいところです。ただ、冒頭「 人の助くるところのものは信なり。 ( 善良で徳の高い者を人々は助けようと思う。 )」の説には同意できますし、これが人情というものです。
徳が高い人物、その徳を「波動」と言い換えればより理解が進むでしょうか?
周囲に自然と人が集まってくるような人物はやはり高い徳、ないしは高い波動を放っています。そういった高い波動にその境地が至れば、天がこれを救うのではなく、その人物自らが天の波動に共鳴してその宇宙法則、易道を体得する。これを以て「祐」と称するのであれば、ここは同意する所です。「祐」は「示」編で、「右」は人間の立ち位置です。
いうなれば「祐」の字は、左(古法では左を上、右を下と見ます 例…左大臣>右大臣)に「示」という神辞があり、その言葉に従って「右」に居る人間が生活やその生き方の方向性を改めています。
天の助けを信じるでは余りに受動的であり、時にそれは宗教のような妄信的な曲解を生みます。そうではなく自らが天の波動に近づく、切磋琢磨し魂の向上を図る、その“生成化育”の活動を行う者には、天はそこに意識を働かせることなく陽の精氣を注ぎ込む…このような解釈であるべきです。
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