易経「繋辞下伝」を読み解く3
それ乾は、確然(かくぜん)として人に易(い)を示す。それ坤は、隤(たい)然として人に簡(かん)を示す。爻とは、これに效(効=なら)う者なり。象とは、これに像(かたど)る者なり。爻象は内に動いて、吉凶は外に見(あら)われ、功業は変に見われ、聖人の情は辞に見わる。(繋辞下伝第1章第3節)
「 それ乾は、確然(かくぜん)として人に易(い)を示す。それ坤は、 隤(たい) 然として人に簡(かん)を示す。 」
「乾則ち陽の働きは、ただひたすらに剛健であり、これを人間に“乾道”として示す。一方、坤則ち陰の働きはただひたすらに従順であり、これを人間に“坤道”として示すのである。その両者の働きは一瞬の迷いもなく、寸部の狂いもないのであって、きわめて単純明快である。これを称するに陽の働きを“易”、陰の働きを“簡とし、併せてこれを“易簡”と称するのである」
前節を受けてのこの節の展開に、「善悪」の概念は確認できないところです。
乾=陽はひたすらに剛健の性質でその氣を発し、坤=陰は陽の氣を従順の性質を以てひたすらにそれを受容する。その結果、坤=陰より万物が生じるという「生成化育」のサイクルが始まるのであり、その構造は極めて単純であり、絶対的な肯定であり、そこに善だ悪だという概念はかえってその作用の解釈を複雑にしかねず、時として論の飛躍を招きかねません。「易簡」の道から逸脱する解釈と考える所です。
「 爻とは、これに 效(効=なら) う者なり。象とは、これに像(かたど)る者なり。 」
「64卦を構成する“爻”は、このように“乾=陽”と“坤=陰”の二つで構成されており、“爻”をこれを例えるならば“效(効)=習う”という意味に解釈する。一方で万物を表現する“象”はこれらひたすらに発する陽(乾)と、ひたすらにそれを受ける陰(坤)が相互に作用しあい、重なり合ったものであり、これが八卦をかたどり、さらに八卦が二つ重なることで64卦卦象へと発展する。“象”を例えるならば“像=かたどる”という意味に解釈する」
易経の発展は太極より生じた陰(坤)陽(乾)の「両儀」にさらに陰陽両爻が重なって「四象」となり、さらにこの「四象」に陰陽重なって「八卦」へと発展します。
陰陽の働きについては「繋辞上伝第1章第1節」に詳らかに孔子自ら解説してきた所です。
「爻とは変を言う者也」(繋辞上伝第3章第1節)でこのように孔子は解説していますから、ここで孔子の説く「 效(効)=習う 」とは、その時に中る「時中」を指します。
そして同様に「彖とは象を言う者也」と合わせ説きますから、人間が占ったり、物事を64卦に当てはめて考えるとき、今がどのような時に中(あた)っているのかを、各爻にあてて思い致すのです。この事を孔子は繋辞下伝において以下に続けます。
「 爻象は内に動いて、吉凶は外に見(あら)われ、功業は変に見われ、聖人の情は辞に見わる。 」
「64卦は、その卦象各々の内に陰陽の作用が変化として表れた物である。従ってその結果が64卦象において“吉凶”、すなわちその卦象が“生成化育”の時に中るのか?、“還元再生”の時に中るのか?それらを事象として、”外”則ち人間に示すのである」
「但し卦象の示すこの“吉凶”の方向性は、きわめて規模の大きいものであり、それを具体的に人間が実感し、採るべき行動の規範とするには難しい。そこで、例えば占って得た卦象を以て判断するに、卦象の表す大きな時間枠の中の、”今その時”を表すのが“爻”であるから、その爻それぞれが示す陰陽をもって、卦象を得た者が採るべき行動を考えるのである。」
「何か人間が行動を起こそうとするとき、占って得た卦象、その卦象の細部を見、その卦象のどの爻に今が当たるのかに思いを致すことで事の成就、不成就を予測することができる。その思いを各卦象の卦辞、及び各爻の爻辞として聖人は綴ったのである」
繋辞上伝を読み解くにあたり最も強く「感じた」ことは、易経を活かすためにはまずその卦象や爻より「感じる」ことが第一義であり、卦辞や爻辞によって吉凶を断じることは第二義的なことであると、繋辞上伝第1章冒頭においてすでに指摘したところです。
ところで、何かを占って出した卦から最初に自身が感じた所と、実際に易経ないし、占いの解釈を見るとそこに吉凶のギャップを感じる所があります。吉であると思ったのに凶という解釈であったり、一方で吉にも凶にも取れるはっきりしない場合があります。
これは往々にして、前者の場合は占いの断を下すにあたり、自身の“吉であってほしい”という私情や願望が入っています。
一方で後者は、占う物事に対し、その問いを絞り込めていない。この二つが誤断の大きな原因となります。どのような問いに対しても、易経(宇宙)は必ず答えを用意していますから、占うものの解読の力量や、その時の心情というものは極めて重要です。
この節においても、孔子は「 聖人の情は辞に見(あら)わる」 と、卦辞や爻辞は易経の卦象や爻より感じた所“情”を辞(言葉)として表したものであると定義していますから、やはり易経は“感じる”が第一義であり、“読む”ことは二義的であり、したがってその吉凶を断じる所も、まず直感的に感じる所の感覚が大切なのです。
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