易経「繋辞下伝」を読み解く26
子曰く、顔氏(がんし)の子(こ)は、それ殆(ほと)んど庶幾(ちか)からんか。不善あればいまだ嘗(か)つて知らずんばあらず。これを知ればいまだ嘗つて復(ま)た行なわざるなり。易に曰く、遠からずして復(かえ)る、悔に祇(いた)ることなし、元吉、と。(繋辞下伝第5章第11節)
「子曰く、顔氏(がんし)の子(こ)は、それ殆(ほと)んど庶幾(ちか)からんか。不善あればいまだ嘗(か)つて知らずんばあらず。これを知ればいまだ嘗つて復(ま)た行なわざるなり。易に曰く、遠からずして復(かえ)る、悔に祇(いた)ることなし、元吉、と。」
「孔子はいう、顔氏の優れた者(子)である顔回は、理想の君子像にちかいと言えるだろう。不善があれば、必ずそれに氣付き改め、二度と繰り返さないのである。地雷復の初爻は言う、“遠からずして復(かえ)る、悔に祇(いた)ることなし、元吉”と言う。顔回もこのように道から外れた時は、速やかに自省して元の道に戻り来たり、二度と同じ過ちを繰り返さない。」
顔回は孔子の想像上の弟子だった?
孔子の愛した愛弟子である顔回という人物は、実在の人物では無いという説があります。
孔子自身、易経を深く読み込み、「我に数年を加え、五十にして以て易(えき)を学べば、大なる過ち無かるべし。」と自らが語る孔子をして、自分よりも遥かに高みにいる大人、さらにその先の聖人を自身の目標とするに、その姿を愛弟子の形として孔子は想像したのではないでしょうか?
孔子門下に集った約3000人、その中でも特に優秀であるところの70子、さらにその筆頭格を孔門10哲と評しますが、論語内にで孔子と直に言葉を交わす子路、子貢と異なり、顔回と孔子が直接言葉を交わすのは、 子路、子貢に比べると極端に少ないです。
勿論齢、30にして夭折しているため、その機会も他の弟子に比べて少なかったことも否めませんが、奥ゆかしい孔子が弟子たちに“我を目標とせよ”とは語らなかったでしょう。
とはいえ、孔子が範とする文王や周公旦は遥か古代の故人であり、弟子たちに目指すべき君子像として示すには具体性に乏しい。
だから、孔子が理想とする周の文王やその次子旦の逸話より、顔回という想像上の弟子を作り上げ、これを目標とせよと弟子たちに諭していたと想像できるのです。
論語に頻繁に登場する子路は論語内では孔子に「季路」と呼ばれることが多く、この「季」には末の弟の意味があるので、孔子にしてみては子路は自分より少しできの悪いやんちゃな弟のような存在であったのかもしれません。この子路と顔回が同時に登場し孔子に質問する場面があります。
子 顔淵がんえんに謂いひて曰はく、 「之を用ゐば則すなはち行ひ、之を舎すてば則ち蔵かくる。唯ただ我と爾なんじと是これ有るかな。」 と。 子路曰はく、 「子 三軍を行やらば、則ち誰たれと与ともにせん。」 と。 子曰はく、 「暴虎馮河ぼうこひょうが、死して悔ゆること無き者は、我は与ともにせざるなり。必ずや事に臨みて懼おそれ、謀はかりごとを好みて成す者なり。」 と。(論語述而第7)
と、ここでは顔回を引き合いに孔子は子路をたしなめる場面が描かれます。
また一番弟子と呼ばれる子貢と顔回の関係では回想として顔回が現れます。
子、子貢に謂て曰く、汝と回と孰れか愈れる。対て曰く、賜や何ぞ敢て回を望まん。回や一を聞いて以て十を知る、賜や一を聞く二を知るのみ。子曰く、如かざる也、吾は汝の如かざるに与みせん。(論語公冶長第五)
ここではあたかも顔回が傍にいるように、或いは顔回と言う人物を生き生きと表現するが、孔子に最も近いこの子路、子貢にこそ、孔子は期待していたと思われます。
そんな彼らを叱咤激励するために、その目標とするところが周の文王のようなすでに当時としては歴史上の人物であっては実感が湧かない。そこで、身近な存在として架空の高弟「顔回」を登場させることで、子路、子貢をはるか高みに誘っているように感じるのです。
顔淵仁を問ふ。子曰はく、 「己に克ちて礼に復るを仁と為す。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すは己に由る、而して人に由らんや。」と。 顔淵曰はく、 「請う其の目を問わん。」と。 子曰はく、 「礼に非ざれば視ること勿かれ。礼に非ざれば聴くこと勿かれ。礼に非ざれば言ふこと勿かれ。礼に非ざれば動くこと勿かれ。」と。 顔淵曰はく、 「回不敏なりと雖も、請う斯の語を事とせん。」と。(論語顔淵12)
このように、孔子と顔回が直接会話する場面もありますが、ここには近しい子路や子貢の姿はありません。
顔回の名前に易経を用いた孔子の諧謔を見る
そもそも顔回とは字が子淵であり、この淵を取って顔淵と呼ばれることがあります。この淵とは名前の回に呼応した「渦巻」であり、その真意は渦を巻くような“深淵”です。
所が顔回の出自はその日暮らしの貧しい貧民であり、顔回の没後その父親が顔回の亡骸を納める棺すら調達するにままならず、孔子乗る車を売ってその費用に充てたいと無心に来るという在り様ですし、顔回自身もまた赤貧を洗うがごとくの困窮した生活を送っていたわけで、顔回の名に対し、父親がつけたのか、自らが名乗ったのか、この名前の「回」と字の「淵」をめぐる高尚な学識があったとは思えません。
「回=渦」とは易経を読み解くにあたり、そのもととなった「河図」において形成される「∞」の形で螺旋です。
また易経その物が、その真理、摂理を体得しようと試みる者にとっては、底知れぬ「淵」のようなものです。顔回とは、孔子はこの易経を通じこれを体得した聖人を孔子の生きた現代に蘇らせんとして登場させた架空の人物であったとしたら、その名前は易経の本質に迫った孔子ならではの、諧謔に満ちた実に味わい深い名付けであると感じる所です。
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