”無駄”の無い人生

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”無駄”の無い人生

”無駄”について考えさせられるニュースが有りました。

立川志らく「古文教育は無駄か」議論に私見「無駄とか有益とかでしか考えられない人生って…」

落語家の立川志らく(60)が29日、X(旧ツイッター)を更新。古典の授業をめぐるSNS上の議論を受け、私見を述べた。

志らくは「古文教育は無駄か否かというのが話題になっている」と言及。「普通に暮らしている場合、古文の知識は確かにいらない」とした上で、「でもそれを言ったら数学だって足し算引き算掛け算割り算を知っていればいい。サイン・コサイン・タンジェントとかも無駄になってしまう。国語にしたって読み書きが出来ればいい。授業で太宰治の『走れメロス』とか梶井基次郎の『檸檬』なんて習う必要はないってことに」と、否定派の意見について指摘した。

学校の授業は「どの分野に興味を持つか探る機会」だとし、「古文に興味を持ったらその道に進めばいいだけ。それを社会生活に必要ないからと排除してしまったら誰も古文を研究する人がいなくなっちゃうよ。それに無駄と言えばたいていのものは無駄。『人生とは最大の暇つぶし』という言葉があるが、音楽や美術だって必要じゃない人からすれば無駄だし」との思いをつづった。

 また、「授業は限られた時間内にやるものだから有益なものを優先すべき」といった否定派の意見にも触れ、「無駄とか有益だとかでしか考えられない人生ってつまらない」とした。「無駄なものに夢中になるとか、修業もそうだが無駄を重ねることによりそれがやがて熟成されて人間力、つまりは温かい心を持てる人間に成長出来る(精神科医の名越康文氏の言葉)」と紹介し、「古文もそうだし、古典落語を知っていると人生楽しいよ。まあ、下手な落語に出会うと、時間を返せ! という気持ちになり、その無駄は熟成しません、でも忍耐力はつきます」とユーモアを交えてつづった。

日刊スポーツ

古典の世界に身を置く噺家としては、一言物申したかったのでしょう。

一方で「古文は無駄」の議論には社会学者の古市憲寿氏がこのような意見を述べています。

古市憲寿氏「古典の授業が無駄」議論に私見「外国語よりも有益なのか」カンニング竹山も「めっちゃ分かる」

 社会学者の古市憲寿氏(39)が28日、自身のSNSを更新し、「古典の授業が無駄」という議論に対して私見を述べた。  

古市氏は「『古典の授業が無駄』といった議論に反射的に反論するひとって、授業時間が有限だということを忘れがちだよね」とつづり、「そりゃ時間が無限にあれば古典でも何でもすればいいけど、それはたとえば外国語よりも有益なのか。あと反論するひとたちが、どれだけの古典に関する教養を持っているかを知りたいところ」とした。

また、「みんな教育に期待しすぎだと思う」とし、「この国の高校卒業率は約95%だけど、大人を含めてみんなで大学入学共通テストを受けてみたら、平均何点くらいになるのか。たぶん悲惨な結果になると思う。結局、日常的に使ってる知識以外は忘れていくし、逆に必要となれば何歳からでも新しいことは学べる」と私見をつづった。スポニチアネックス

房主は根っからの文系人間で、中学後半で「連立方程式」挫折。

高校に入って物理、代数幾何で脱落しました。

「公式」を覚えるのが大嫌いで、高校時代は理系の教化はボイコット(授業には出ていたが)していました…

だから「古文は無駄」という議論、そこに何も面白みや意義を感じられないのであれば、その通りだと思います。

ただ、易経は「古文」でもありますし、一方で「五行易」の読み解きはさながら「方程式」を解いているようだ…との感想をいただいた時、世の中に”無駄”なことってないんだなぁ…と、過去の自分への反省を含め、改めて思い直しました。

”無駄のない人生”は素晴らしい人生か?

数学者の岡潔先生がこんな言葉を残しています。

「数学の本質は”計算”や”論理”ではなく、情緒の働きだ」岡潔

この言葉に触れた時、思わずギョッとしました。

凡そ数学とは「情緒」とは正反対に位置していると考えていたからです。だから始めは全く理解できなかった。ただ、易経に触れる日々を送る今は理解できます。

岡先生は数学を通して”宇宙”を意識しておられたのだと思います。

そして房主は易経を通して”宇宙”を意識しますから、今はこの言葉に深い共感とともにようやく、朧げながら理解できています。

「情緒」を別の言葉に例えるならば「余白」であり「間」です。

水墨画の名画は、大胆に余白を取る。この余白にその絵を見る者は描かれていない山や川を意識します。その時、絵を描いた作者が見たであろう景色を、鑑賞する者は時空を超えて共有することができます。

易経で定義される人間の役割とは、「空間」と「時間」という「間」を人間だけでなくそこに生きとし生けるものすべてにとってより良い環境に整えることです。これを「天」「地」に相並ぶ「人」の三才と易は定義します。

例えば「パーマカルチャー」という考え方が有りますが、これは土地に人間が水路を引いたり、菜園を作ることで、多種多様な植物が繁茂し、そこに多種多様な動物が訪れ、共存する環境を整えていく考え方です。これは人間にしかできないことであり、別の例えをあげるならば、草木が生えない砂漠を緑化することができるのも人間だけです。

人間とはこの「間」を埋める存在であると定義した時に、社会学者の古市氏のような意見、「効率」や「有益」かという価値観では、決して豊かな環境を整えることはできないと思います。

効率や有益性を以て自然に相対した時、必ず人は自然から手痛いしっぺ返しを受けます。これは繰り返される天災のたびに刻まれる教訓です。

そこには「人(自分)だけが」というエゴがはたらき、同じ空間に存在する他の種への共感が働いていない。つまり「間」を意識していないのです。

演出家の蜷川幸雄氏は生前「間抜けな人が増えた」という言葉を残していますが、これは人間が「間」を意識しなくなったことを演出家という目線から鋭く批評した含蓄のある言葉です。

あるいは茶道や日舞は動と動の間の静を意識します。そこには「残心」という「間」が存在し、続く動を美として引き立てます。

効率を重視する世界に於いてこのような「間」は必要としませんが、それでは芸術として成り立ちません。

確かに、学校教育という限られた時間の中で伝えなければならない知識は数多あるでしょう。効率や有益性を考えれば「英語」の授業の方が実社会において使う機会、役に立つことは確かに多い。しかしそれでは「感性」は育たないと思います。

古市氏の言うように、知識は後からでも学べるし、身に付く。

しかし「感性」は学ぶものではなく「育てる」ものですから、大人になってからでは遅い。

知識よりも先に磨くべき「感性」は確かに存在するし、それを伝えることも教育の立派な使命だと思う。古文が「感性」を磨く全てではありませんが、これを「効率が悪いから」「有益性」に欠けるからと否定する議論は少々乱暴だと思うし、なにより効率重視という社会はギスギスして居心地が悪い。

易者、占い師だって社会に欠かせない職業ではありませんから、「効率」や「有益」を重視する人からすれば「無駄飯喰らい」とそしりを受けそうです。

しかし、効率重視のギスギスした社会だからこそ悩みを抱える相談者は後を絶たないし、そういった相談者は効率重視の社会に自身の居場所、「間」が無いから苦しんでいるのです。

だから、志らく師匠の「無駄とか有益だとかでしか考えられない人生ってつまらない」という意見には賛成しますし、無駄のない人生は「間抜けな人生」だと房主は思います。

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