神も仏もある!
運氣のどん底にある時を示す言葉に、昔から
「神も仏もない…」
この言葉と共に、その不幸を嘆く当事者が深いため息をつく場面を想像できます。
ところで、本当に悩めるその瞬間に、神も仏も無いのでしょうか?
「神」と言う漢字を、解いて考えてみましょう。
神の偏は「示」編です。つくりは「申」ですから、この形は神前にて祝詞を捧げる形です。
ですから、本当は心内の悩みこそ、神棚でも仏壇でもいい。身近に聞いてくれる、受け止めてくれる対象が無い時ほど、寺社仏閣に頼ったり、ご自宅の仏壇や神棚に手を合わせたいものです。
…次に「仏」に注目してみましょう。
仏は「人」に「ム」です。
これを「ム=無」で解釈すれば、「人」と「無」で、そんな悩みこそちっぽけだと気付くはずです。
納得しませんか?
それならば、その心中の悩み事、人前では恥ずかしいでしょうから、誰も聞こえないところでブツブツつぶやいてみてください。
…そう、その「ブツブツ」を意識して…
あるいは、手近くにあるメモ帳でも、チラシの裏にでも、思い付くまま書き連ねてみてください。
書き連ねるのであれば、もうこれ以上書くことがない、もう思いつかない…という所まで書き続けてください。
…そして、もう書けないと思った段階で、その書いた紙を細かく切り刻んだり、引きちぎって空に向かって放り投げるか、「ありがとう、さようなら」の念を込めて、燃やしてしまってください。(燃やす際は、その紙が燃え尽きるまで見ていましょう)
そして、つぶやく場合の「ブツブツ」は、そのブツブツにフォーカスしましょう。
「ブツブツ…」を繰り返し意識…それでもわだかまりがあるのであれば、「ブツブツ」と具体的に口に出して唱えてみましょう。
「ブツ」はいつしか「ツブ」に音が変化していることに気付くはずです。
”悩み”を視覚化してみる
実は、大小、重軽の悩みは等しく口に出したり、何か視覚的にそれとわかるように表すと、その瞬間に小さくなります。
ブツブツブツブツ…
ブツが変化してツブになる。ツブは粒です。
繰り返し言葉を発することで、大きな悩みは段々と可視的、自身の手に負えるサイズに落ち着いてくるし、仮に紙に書くことによって、視覚的にもその悩みは卓上無いし、書いた紙に収まるほどの大きさにとどまるはずです。
誰も自身の悩みを紙に書け…と言われて、その悩みを模造紙に書いたり、書家のように一畳敷きの大きさの半紙に大書する人はいないでしょう。
”悩み”は目に見えないから漠然としていて、悩むたびにその悩みは大きくなっていってしまいます。
だから、視覚化して具体的な大きさを自分の目で確かめてみましょう。
”話す”は”放す”
こうして悩みを言葉にしたり、紙などに書く…これを「放す」と言います。
誰かに悩みを打ち明け「話す」ことは、その悩みを手「放す」ことです。
「放」は「方」に作りは「ノ」に「文」
方は「﹅」と「万」でブツブツ唱えるのです。
「ノ」に「文」は紙に書き殴ってもいい、思いのたけを紙上にさらけ出して、その後にそれをリセットすればいい。
ブツブツ念仏のように唱えることは、その悩みを細分化し、「ツブ=粒」の状態にすることで、その悩みの重石や負担は細分化されて、もっと生きやすく、もっと前向きになる。
大きな悩み=岩をぶつけられると大けがをしますが、その岩を”ツブツブ”に変えてしまえば、同じ大きさの砂の塊をぶつけられても大けがはしません。
紙に書き続けていると、その悩みはどんな大きいモノであっても、いつしか目の前の紙の範囲の中に納まっている…手に負えない、とらえどころがない…と思っていても、いつしか視覚的に治まる範囲内に悩み事は整理されてきます。
神も仏もある!
科学や技術が進歩しても、そこには必ず”神も仏もいる!”のです。
宇宙の法則は、問いを発したものを見捨てず、必ず何らかの答えを示します。
ただ、その答えは常にその瞬間に訪れるのではなく、時を隔てたり、自然現象でそれを伝えたりします。
その答えは常に一方通行で、ここに答えがあるよ…とは教えてくれませんから、問いを発した者がそれに氣付くしか無いのです。
悩み苦しむときは、どうしてもその視点も思考も内向的になりますから、そんな時ほど、ちょっと努力してその視点を外にフォーカスしてみましょう。
そこには必ず、神も仏もいるはずです。
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