豊臣秀頼の出自
歴史の謎に「五行易」で迫る。
今回は、太閤秀吉の実子豊臣秀頼の出自に迫ります。
正室北の政所こと、寧々との間に子どもが生まれず、織田信長の妹のお市の方に恋い焦がれ、その実子の茶々(後の淀君)を側室に向かい入れた秀吉は、生涯にわたって16人の側室を囲い、権勢だけでなく精力も誇示していました。
しかしなかなか男子に恵まれず、授かった秀頼は秀吉が50代に至ってから生まれた子どもで、当時の平均寿命において晩年にさしかかっていた秀吉にとっては遅すぎた後継者の誕生でした。
10年早く秀頼が生まれていたら、豊臣家の後継者として権力の継承は盤石であったと思われ、徳川幕府の誕生は無かったかもしれません。
ただし、発見された史料からは、秀頼は秀吉の実子ではない…とうかがわせるものもあり、母は北庄城で命を落とした事実を知りながら、秀吉に囲われた茶々は、秀頼を介して豊臣家を乗っ取り、結果的に母を殺した形となった秀吉への復讐を世代を超えて果したとも考えられます。
「豊臣秀頼は、秀吉公の実子にあらずと密かに言っている者もいる。その頃、卜占(占い)に巧みな法師がいたのだが、その者が言い始めたとのこと。淀殿は、大野修理と密通し、捨君と秀頼君を産んだのだ。秀吉公の死後は、淀殿はいよいよ情欲に耽った。大野は、邪智で淫乱で、なおかつ容貌が美しかった。名古屋山三郎は美男であったので、淀殿は思いを寄せ、不義があった。大坂(豊臣家)が滅びたのは、ひとえに淀殿の不正より起こった」と。
『明良洪範』より
「かれ(秀吉)には唯一の息子(鶴松)がいるだけであったが、多くの者は、もとより彼には子種がなく、子どもを作る体質を欠いているから、その息子は彼の子どもではない、と密かに信じていた」「関白には信長の妹の娘、すなわち姪にあたる側室の一人との間に男子(鶴松)が産まれたということである。日本の多くの者がこの出来事を笑うべきこととし、関白にせよ、その兄弟、はたまた政庁にいるその二人の甥にせよ、かつての男女の子宝に恵まれたことがなかったので、子どもが(関白の)子であると信じる者はいなかった」
ルイス・フロイス『日本史』より
ルイス・フロイスの指摘、「秀吉に子種がない」…という指摘は言い得て妙です。生か死かという厳しい環境下を生きた戦国時代の武家において、自身の血脈を後世に残すということは”生存本能”であり、その点においては信長も家康も子だくさんです。
しかし秀吉は常に女性に囲まれつつも晩年に至るまで実子に恵まれず、授かった男子は全て茶々(淀君)であったところにも、秀吉が何か性的な問題を抱えていたことが推測されます。そして、フロイスや史書『明良洪範』が伝える秀頼は茶々と大野修理の密通によってできた子ども…という説は、半ば公然の秘密のようなものでなかったか
淀殿が秀頼を受胎した際に、秀吉と淀殿は一つどころにいなかったとする見解もあります。歴史学者・服部英雄(九州大学名誉教授)によると、秀頼の受胎想定日は「文禄元年(1592)11月4日頃」(秀頼は1593年8月3日に誕生)。ところが、文禄元年10月1日には、秀吉は大坂から九州へ向けて出発。10月30日に博多到着、11月5日には、肥前(佐賀県)名護屋にいたのです。淀殿が秀吉と共に九州に下向したのなら話は別だが、一般的にはこの時、淀殿は大坂城にいたとされます(淀殿は九州に行ったとする説もあり)。よって、淀殿は秀吉の子(秀頼)を妊娠できるはずはないというのです。
最晩年の秀吉は秀頼を溺愛しましたが、それは実子に恵まれず、また養子とした秀次も自ら切腹に追い込んで喪っており、いよいよ豊臣の家を秀頼以外に継がせるしかない…という秀吉の諦念にも似た心境でなかったか?
占的「豊臣秀頼は秀吉の実子か?」
立卦及び卦象
本卦「天雷无妄」、之卦に「風天小畜」を得ました。
天雷无妄は人為の通じない時、秀吉が生来子どもを授かることのできない性的な不具を有していた?…ということを想起させます。
之卦は一時停止を意味する小畜卦、豊臣が二代で絶えたことを暗示させる得卦です。
用神は「子孫」でとります。四爻の子孫の午(火)。
至高の尊意位の五爻を秀吉として血のつながりを見ていきます。
その五爻が「申」を帯びるところに妙味があります。そして五爻は日併と卦中最強ですから、関白として絶大な権力を有していた秀吉の様子を表します。
そして四爻の午(火)は申(金)を「火・剋金」と剋しますから,晩年秀吉が秀頼を溺愛した様子として見ることができます。
しかし、秀吉の五爻の之卦には子孫の巳(火)がありますが、本爻は午(火)と微妙に異なります。
三爻の妻財の辰(土)が淀君、朱雀を帯びて苛烈な性格を想起。月合とこちらも強い爻なので、秀吉没後権力を握った様子です。
そして初爻の父母の子(水)が四爻と冲の関係となります。
辰(土)は申子辰(水局三合)の墓に当たるので、発動する辰(土)は、初爻の子(水)を墓に納めます。
ここより、淀君が大野修理を誘惑した様子と見ることができます。同様に申子辰(水局三合)の関係から、五爻の申の秀吉は淀君にとっての夫の関係と読み解けます。
初爻の父母を大野修理とみれば、四爻と冲の関係となるのは、淀君との不義密通で得た秀頼の実父として名乗り出ることのできない様子。
二爻の兄弟は日辰から冲を受けて冲散。これは夭折した鶴松。
内卦の伏吟は、秀吉及び秀頼の伏吟。
おそらく秀吉は秀頼が自分の子どもでないことを知っていたのでしょう。しかしそれを理由に淀君や大野修理を処罰すれば、自らの恥を天下に晒すことになるので何もできない様子。
一方で秀頼もまた実父が大野修理であることを知ったとしても、秀吉から継承した権力の正統性を失うことになるのでこれを公表できない。これは淀君も同様です。
占断
秀頼は秀吉の子にあらず。
淀君の不義密通により生まれた大野修理の子。
ただし、その事実を秀吉も知っていた模様です。
わずか12の爻が指し示す易の卦は、かくも詳らかに歴史の暗部を照らします。
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