豊臣秀吉の出自に迫る!

五行易占例
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豊臣秀吉の出自に迫る!

歴史の謎に五行易で迫る!

今回は、立身出世の代名詞である豊臣秀吉の出自の謎に迫ってみます。

貧しい農民出とされる豊臣秀吉は、織田信長に重用され織田家重臣から信長の死後戦国大名となり、信長の天下統一事業を引き継ぎ「惣無事令(大名同士の私闘を禁じる政令)」を発し、戦国の世に終止符を打ちます。

一方で自身は武家の出自ではないからと「征夷大将軍」を名乗らず、「関白」という朝廷の位階の最高位を襲い、権力の頂点に立っています。

ただし、その出自については様々な説があり、定説は定まっていません。

中には秀吉の母は「持萩中納言」という高位の貴族の家に生まれ、宮仕えをしていたともされています。宮仕えとなれば帝のお手がついて、秀吉は実は帝の御落胤であるという説も存在します

■公卿落胤説
 「公卿落胤説」もある。秀吉の母「なか」は、持萩中納言なる公家の息女であったという説がある。
 あるとき持萩中納言は罪を犯し、尾張国村雲(名古屋市昭和区)に配流となった。持萩中納言が亡くなると、妻と2歳の息女が残った。この息女が、「なか」である。
 成長した「なか」は木下弥右衛門と結婚し、2人の間に生まれたのが秀吉だった。「なか」が公卿の血筋を引いていたので、秀吉は公卿の落胤となる(『東国太平記』)。
■天皇落胤説
 続けて「天皇落胤説」を取り上げよう。秀吉は正親町天皇の子であり、陽光院(誠仁親王)と兄弟であったという。つまり、秀吉は後陽成天皇と兄弟だったのだ(『嬰嬰筆話』)。
 大村由己(秀吉の御伽衆)の『秀吉事記』には、公卿落胤説と天皇落胤説の折衷した説が提示されている。由己は秀吉に近侍しており、同書の記事は比較的信頼が置けるといわれている。
 しかし、この説は秀吉が自身を貴種(天皇家の血を引くこと)としたい意図を汲んで執筆されたと考えられ、今では否定されている。

史家の研究においても,秀吉の出自は謎に包まれており、ここを五行易を持ってその謎に迫ってみたいと思います。

占的「豊臣秀吉の出自は?」

立卦及び卦象

「山天大畜」の不変卦を得ました。

大きく蓄える、また上卦に艮山を持つ得卦は、位人臣を極めた秀吉の生涯を象徴する卦と言えましょう。

官鬼は二爻,上爻両現です。地支は寅(木)で同じであるから同一人物で上爻は位人臣を極めた太閤秀吉でしょう。

二爻がその出自です。二爻下に父母が伏神し、よくわかっていない生家、出自を象徴します。二爻は青龍を帯びるので、貧しいと言われながらも気品、風格漂う性情を示します。

この伏神に五爻の子(水)が爻冲してきます。五爻は妻財で男性から見た女性、父母への爻冲は母の出自の情報。五爻は至高の尊位の爻ですから「持萩中納言」のような高位の貴族の出自を伺わせます。

用神を寅(木)とすると、伏神する父母と四爻の戌(土)で「寅午戌(火局三合)」の情意を汲み取れます。そに三合墓に当たる戌(土)には勾陳という田畑の象意のある六獣が付きます。ここより秀吉が貧しい農民出身という情報が見て取れますが、戌(土)は空亡するのでこれは真実ではありません。

なんらかの事情でそう名乗らざるを得なかったと推断します。

仮に「天皇の御落胤説」という説に則ってこの卦を見れば、三爻に伏神する子孫の申(金)は用神と爻冲します。

飛神である辰(土)は日辰の酉日(金)から合されて合起します。そしてその辰は四爻の戌(土)と爻冲するので、帝の後継をめぐってなんらかの事情で宮中より出されたと推断できます。

占断

秀吉は、宮仕えをしていた母に帝のお手がついて生まれた「御落胤」である。

そう考えると、秀吉が武家に頭領としての「征夷大将軍」を名乗らず、関白の位を襲ったのは、自らは皇室の血を引く者であり,あわよくば自身が、あるいはその子秀頼がいずれは天皇位に…という野心があったと推断します。

上爻は白虎を帯び野心家の象意。これであるならば、本能寺の変後の「中国大返し」は純粋な権力への野心、執着という形で説明出来る。

一方で本能寺の変で影で光秀及び朝廷の策に一枚噛んでいた徳川家康の関係は、権力を「足るを知る」という性格の徳川家康に「征夷大将軍」として譲る一方、権威としての朝廷の存続を狙った朝廷。

権力と権威両方を手中に納めんとした信長、秀吉に対し、権力は譲っても権威は手放さない朝廷との間で交わされた歴史の水面下での激しい駆け引きを想起させます。

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