易経「繋辞上伝」を読み解く33
子曰く、夫れ易は、何(なん)爲(す)る者ぞや。夫れ易は、物を開き務めを成し、天下の道を冒(おお)ふ。斯(かく)の如きのみなる者也。是(こ)の故に、聖人、以て天下の志を通じ、以て天下の業を定め、以て天下の疑いを斷ず。(繋辞上伝兌11章第1節)
「 子曰く、夫れ易は、何(なん)爲(す)る者ぞや。 」
「そもそも易経とは一体なんであるか?」
第11章、この章でも孔子は易の摂理と、その原理摂理を修養する手段の一つとして「易占」の効用を説きます。
「 夫れ易は、物を開き務めを成し、天下の道を冒(おお)ふ。斯(かく)の如きのみなる者也。 」
「易経とは、太極より生じた陰陽の両儀を滞りなく作用させ、この世の中にある萬物が各々が、天から授かった使命(天命)としての務めを成し遂げさせ、天地宇宙の変化の道理を明らかにするものである」
「大学」で著す「格物致知」のように、理路整然と易経の成立と、その意義を説きます。この辺り老子の易経に対するアプローチとは全く正反対であります。「 何(なん)爲(す)る者 」と孔子は易経の中に「神」という人格を定義しようとします。一方で老子はこれを「道」として人格を定めません。
これまでの孔子の易経に対する自身の捉え方は、「易の原理、摂理に体得通暁した聖人を目指すべく、君子たれ、そして大人たれ」と、自己の修養の道、哲学としての「易道」を説きます。
一方で老子は「赤子に帰す」と余計な知識、教養など不要、あるがまま、自然の状態に戻ることを「道」と説きます。
前者(孔子)は知を重ね、徳を積み増すことを求めるに対し、後者(老子)は知も徳もそれまで抱えてきたものを削ぎ、洗練されていくところに、本来命が抱く「善・愛」があるとします。孔子のアプローチは、その手段、方法は明確であるがその実践は険しい道のりです。一方で老子のアプローチはその手段、方法は曖昧でぼんやりとしているが、その実践はたやすい。
五行に例えれば、孔子の考え方は「火(明知)」であり「金(父権)」を帯び、一方で老子は「水(柔弱)」であり「土(母権)」です。
そこで余る五行の「木」が五行の情意である「仁」。孔子、老子が自らの著作の中でしばしば登場する「聖人」は、「智者」であり「義者」であり何よりも「仁者」です。一方で老子は「柔弱」である者は何よりも強い存在であり。その存在は万物を包み込む包容力がある。その究極的な「母性」に「仁者」の姿を見出しています。
「人の生まるるや柔弱(じゅうじゃく)、その死するや堅強(けんきょう)なり。万物草木(ばんぶつそうもく)の生まるるや柔脆(じゅうぜい)、その死するや枯槁(ここう)なり。故に堅強なる者は死の徒(と)にして、柔弱なる者は生の徒なり。ここを以(も)って兵強ければ則(すなわ)ち勝たず、木強ければ則ち折る。強大なるは下(しも)に処(お)り、柔弱なるは上(かみ)に処る。」(老子道徳経76章) 「人は生まれてくるとき弱々しく柔らかいが、死ぬと固く強ばってしまう。草木やその他の生命も生まれてくるときは柔らかで脆くみえるが、死ぬと固く干からびてぼろぼろになってしまう。つまり固く強ばっている方が死に近く、柔らかく弱々しい方が生に近いのだ。だから軍隊がいくら強くとも力攻めでは勝てないし、樹木に柔軟性がなければ簡単に折れてしまう。このように強く大きなものこそ下にあり、弱く柔らかいものこそが上にあるのだ。」
したがって儒家も道家も、その各々が目指すところは「仁者」でありそのアプローチの仕方が正反対です。いかにして、また「仁者」に至るに必要な道徳や知識は何であるか?これを学び、体得するところのものは「易」であると、孔子も老子もその認識は共通するものが有ります。
「 是(こ)の故に、聖人、以て天下の志を通じ、以て天下の業を定め、以て天下の疑いを斷ず 」
「其れゆえに、聖人と呼ばれる存在は、易経を以て陰陽に基づく“宇宙の法則”を理解通暁し、この法則を以て万物の“生成化育・還元再生”のはたらきを詳らかにし、あらゆる事象の仕組みを解き明かすのである」
「道、一を生じ、一が二を生じ、二が三を生じ、三が万物を生ず。万物は陰を負い、陽を抱き、沖気以和を為す」(老子道徳経42章)
引用の老子の42章は、太極より陰陽の両儀が生じ、その両義より四象、八卦へと発展する様子を端的にまとめており、この章、老子はこの働きを理解することが人の上に立つ王侯の道であり、その先に聖人の道があると説きます。
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