易経「繋辞上伝」を読み解く34
是(こ)の故に、蓍(し)の徳は圓(えん)にして神(しん)なり。卦の徳は方(ほう)にして以て知なり。六(りく)爻(こう)の義は易(か)はりて以て貢(つ)ぐ。聖人、此れを以て心を洗ひ、退きて密に藏(かく)る。吉凶、民と患(うれい)を同じくす。神は以て來(らい)を知り、知は以て往を藏(かく)す。其れ孰(た)れか能(よ)く此(こ)れに與(あずか)らんや。古(いにしえ)の聰(そう)明(めい)叡智、神(しん)武(ぶ)にして殺さざる者か。(繋辞上伝第11章第2節)
この節、仁者である聖人がいかに易経、ここでは主に「易占」を以て未来の吉凶を知り、それを用いて万民を教導するその功徳、心得を説きます。
「 是(こ)の故に、蓍(し)の徳は圓(えん)にして神(しん)なり。卦の徳は方(ほう)にして以て知なり。 」
「易占で用いる筮竹を以て表す易神の真意はこの宇宙を示す円のように限りなく、その形も自在である。従って易占を立てるにあたり、どのような卦を得、どのような神意が示されるのか、それは易占を立てる聖人ですら予測することは不可能なことである。一方で、筮竹が示す卦象は、一定の形を示し、事に当たっての取るべき方策や行動の指針が、理路整然と明確に示されている。そこには人智を超えた奥深い宇宙の仁愛と、いかなる問いも柔らかく受け止める包容力を兼ね備えている。」
この一節は、易経冒頭の「乾為天」と「坤為地」の卦徳を意識しつつ読み解くと、この宇宙の法則のその本質をより深く理解できます。
乾為天の卦徳はその発する所を専らとし、その発する力や方向、強弱に一定の法則は認められず、ただただ宇宙根本より発することにのみ専従します。これが乾為天の彖伝にある「乾道変化 各正性命 保合大和」に現れています。
「すなわち様々な方向や強弱、一見一定の法則性もなく無秩序に放たれているように見せる乾の放つ陽の氣も、その中には各々が何を成すべきか、それぞれがその使命を帯びており、互いに干渉することなく生成化育のために大いに調和し、その秩序は失われることが無い」これが乾の卦徳であり、「大和」は「大輪」であり、禅僧がひと筆で描く「円相」です。
一方その陽の氣を受ける事を専らとするのが「坤為地」であり、放たれる陽の氣を取りこぼすことの無いようその形は「方=四角」であり、また陽の氣を受けて万物を生じる様は、理路整然と実直であり万物を生じるに、その疑うことを知らない。この徳を坤為地の二爻の爻辞で「直方大也」と表します。
この卦徳は一方で直線的に放たれる陽の氣を受け、そこから万物を生じる作用は、反射的に陽に向かって発するのではなく、その氣を四方八方に押し広げながら生じます。陰陽の関係から五行が生じる二次元から三次元への移行の過程を示します。そこには万物を生じるという無限の可能性を秘めており、柔らかく包み込むような母性を感じる所です。
「六(りく)爻(こう)の義は易(か)はりて以て貢(つ)ぐ。聖人、此れを以て心を洗ひ、退きて密に藏(かく)る。吉凶、民と患(うれい)を同じくす。 吉凶、民と患(うれい)を同じくす。 」
「卦象を構成する六つの爻は、陰陽反転させることで変化の道を示し、そこから“生成化育”“還元再生”の吉凶の作用を告げる。聖人はその筮竹を通じ、卦象と爻を以て告げる所の易神の神意を、疑うところなく赤心以て押し戴き、その吉凶の断に自らの心理や心情を交えることなくこれを民に告げる。吉を得たのであれば民とともに喜び、凶を得たのであれば民とともに憂えるのである。」
鑑定をしていて悩ましいところがこの部分でありまして、相談者の希望や意向と全く正反対の結果が示されることがあります。
判決を下す裁判官宜しく“吉凶”の断を下すところに人情が邪魔をします。ただ、“凶”を“吉”として伝えることは誤りですし、オブラートに包んで相談者に誤解されても困る部分です。
この時、凶を告げるにあたっても、相談者に寄り添いながら、一方でその先の道筋を指し示す、相談者の求める道とは異なる別の道を照らし示すところに易占の意義があります。
「 神は以て來(らい)を知り、知は以て往を藏(かく)す。其れ孰(た)れか能(よ)く此(こ)れに與(あずか)らんや。 古(いにしえ)の聰(そう)明(めい)叡智、神(しん)武(ぶ)にして殺さざる者か。 」
「筮竹を以て易神の示す未来を察し、其の示された卦象を以て取るべき行動、往くべき道を推し量る。示されたところの吉凶に私情を挟むことなく、これを告げ民と苦楽を共にする。このような境地に至るには、どのようにすればよいのであろうか?古の偉大な指導者たち(堯、舜、禹、湯王、文王)のように聡明であり、武力を用いることなく高い威徳を以て民の信任を得てこれを治めた」
老子は「 古(いにしえ)の聰(そう)明(めい)叡智、神(しん)武(ぶ)にして殺さざる者か。 」のような人物をこのように例えます。
善為士者不武。善戦者不怒。善勝敵者不与。善用人者為之下。是謂不争之徳、是謂用人之力、是謂配天。古之極。(老子道徳経第68章) 善の士は武ならず。善く戦う者は怒らず。善く敵に勝つ者は争わず。善く人を用いる者は下る。これを不争の徳といい、これを用人の力といい、これは配天ともいわれる。古の法則である。
老子の言う「配天」は、「天道に合する者」の意で、「成さずして成し、争わずして納める」仁者であります。
孔子もこの節を以て、易を取り扱う者は「仁者」であらねばならないと、暗にその道を指し示しています。
老子も繋辞上伝第11章で孔子が述べる所も、その目指すべき至高の存在聖人に至る道程に「仁者」の過程があると定義します。それは「仁」という文字に「二(天地陰陽)」に並ぶ「人」を以て象づけるこの「仁」の文字に、「天地人三才」の人間としての使命を見出したからでしょう。
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