易経「繋辞下伝」を読み解く4
天地の大徳(だいとく)を生と曰(い)い、聖人の大宝(たいほう)を位と曰(い)う。何をもってか位を守る、仁(人)と曰う。何をもってか人を聚むる、財と曰う。財を理(おさ)め辞を正し、民の非を為すを禁ずるを、義と曰う。(繋辞下伝第1章第4節)
この節は繋辞上伝で説き明かした易経の摂理、その徳を高らかに讃えます。繋辞上伝で繰り返された易経への賞賛の辞は、言葉を変え繰り返されるところに孔子の易経に対する深い畏敬の念と、そこより至った自身の想いの裏付け、信念にも似た自信を感じる所でもあります。
「 天地の大徳(だいとく)を生と曰(い)い、聖人の大宝(たいほう)を位と曰(い)う。 」
「天地(陰陽)が尊崇されるゆえんは、この世のあらゆるものを“生”じるという作用にある。陰も陽も何かを生じ発展させるために常に専心しているのであり、そこに私利や意図もみじんに感じられなず、ただひたすらにその本分に忠実である。その働きを卦象を以て明確に表したのが聖人である。ゆえに聖人は天の働きを万民に示す尊崇の位に位置する“天子”である。」
この句、易経の本質を鋭く指摘し、その働きを体系化してし明示した聖人を“天子”と尊位に位置付けます。易の卦象の五爻がそれにあたります。“ 大宝 ”と表したのは、この後に続く句に「 何をもってか位を守る 」と続いており、易経の摂理を誤まることなく後世に伝える、定命の人間が永久不変の易経の摂理を伝えることの至誠、崇高な行為を尊ぶものです。
この行為は君子や大人を超えた至高の存在である聖人の業であり、みだりに誤った解釈で易の理法を用いれば、万民をして誤った方向に導いたり、それは時として人命にかかわる破滅の道に誘ってしまう危険性も孕む。
そこで「聖人」の域に達する前に踏む手順として、「君子」「大人」の過程を孔子は明示します。
「 何をもってか位を守る、仁(人)と曰う。 」
「聖人が聖人たる存在であり続ける…そのための一つの徳が“仁”というものである」
古典の解説書においては、本文「何以守位曰仁」を「 何以守位曰人」と解釈します。
おそらくは「聖人」の存在を意識して意訳した結果と思われますが、繋辞上伝の最終節で孔子が至った結論に注目すれば「仁」で解釈すべきです。
「仁」の文字は陰陽を表す「二」に並び立つ「人」で成り立ちます。
ここで聖人を目指す人間のとるべき規範である「仁」を「人」としてしまっては、文章の意味は通じても、天道としての易経を人道として活かすための肝心な心柱が抜け落ちてしまっていると感じるところです。
「何をもってか人を聚むる、財と曰う。」
「聖人は衆人の敬愛を一身に集める。これが“財”というものである」
この句“財”を“財貨”としては前句とのつながりを欠くし、その意味も狭義です。
この“財”は物質の財にとどまらない易経の卦徳であり、卦辞、爻辞です。
つまり聖人は易経の摂理を時に易占を以て明確に示し、万民を教導する行為そのものです。
古代中国においては、“暦”の制定は王や皇帝の専権事項で、易経その物の発展形成の過程には、天文学の研究がその根底にありますから、具体的にはこの“暦”を用いて農作業や商工業の指針としました。
農作物の出来不出来はそのまま権力基盤に直結しますし、天災や凶作が続くと、その為政者に徳が無いとする「易姓革命」を以て為政者を挿げ替えてきた中国の歴史を考慮すると、「財」は「仁」の延長にあるものとして位置付けることが適当でしょう。
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