易経「繋辞下伝」読み解く19
易に曰く、石に困(くる)しみ、しつ藜(り)に拠(よ)る、その宮に入りて、その妻を見ず、凶なり、と。子曰く、困しむべき所にあらずして困しめば、名必ず辱(はずか)しめらる。拠るべき所にあらずして拠れば、身必ず危し。既に辱しめられ且つ危うければ、死期まさに至らんとす。妻それ見ることを得べけんや、と。(繋辞下伝第5章第4節)
「易に曰く、石に困(くる)しみ、しつ藜(り)に拠(よ)る、その宮に入りて、その妻を見ず、凶なり、と。子曰く、困しむべき所にあらずして困しめば、名必ず辱(はずか)しめらる。拠るべき所にあらずして拠れば、身必ず危し。既に辱しめられ且つ危うければ、死期まさに至らんとす。妻それ見ることを得べけんや、と。」
「易経の沢水困の卦にいう、
“前は大きな石が(行く手を阻む)困難が待ち構えているし、腰を下ろそうにも辺りはいばらで占められて(腰を下ろすことも適わない)、我が家に入れば、(慰めてくれるはずの)妻の姿も見えない、凶である。”
とはどういうことを意味するのか?
私(孔子)はこう思う、
「(努力したところで大石は独力では動かく事は出来ないのだから無駄な努力である)困しまなければならない所でないのに困しむと、(動かせない石を動かそうと無駄な努力を重ねていると、非力な奴だと見られ誤解され)周りからは嘲笑されてしまう。(いばらの上になど座るべきところではないのに)身を置くべきところでないところに身を落ち着かせてしまえば、身に迫る危険に対処できなくなる。周りから見ても明らかに愚かなことをしていて、なおかつ危ういところに身を置いて居れば、その身の破滅が近いのである。妻を含め、誰が救いの手を差し伸べるであろうか?と。」
日月の巡りを人間の手で止めたり、戻したりすることができないように、易経の吉凶の流れもまた時として厳然です。
この、あきらかに目に見え、或いは明確に耳に聞こえる事象を「象」と言い、これは易経の64それぞれの卦象を指します。
例えば一たび乾為天から天風姤に到った流れを、それと目のあたりにし、あるいはそれと耳にした時点で、天風姤の時を乾為天の時に巻き戻すことは不可能です。
同様に、一たび吉から凶、すなわち陽の生成化育の作用が還元再生の作用に切り替わった物を、人間の手で元に戻すことはできないのです。そうであるならば、易経の変化を兆しの内に捉え、予め手を打っておかなければなりません。
この節に引用する“沢水困”の卦は、易経64卦の中でも特に困難な時を示す「四難卦」と呼ばれる厳しい卦の一つです。
沢水困の卦は下卦に険難を表す「坎」の上に喜悦の「兌」が乗っかる形で、足下に迫る危機を見て見ぬふり、傍からみて大変危険な状況にあるのに、当の本人は虚勢を張ったり、余裕がある振りをしている。
周囲の人は善意で助言を申し出ても(二爻、三爻、四爻で「離=明智」が互体としてとれる)当の本人は意に介さず、また周囲が救助を躊躇してしまう(三爻、四爻、五爻で「巽=迷い、躊躇」が互体としてとれる)ような危機的状況にあるにもかかわらず、当の本人は尚そこにとどまり続けている。
このような状況であるから、当の本人がいよいよその危地に有るを悟り、いざその危地を脱しようともがいても、それは巨大な岩を独力で動かすようなもので徒労に終わるし、かといってその危地にとどまることは尚危険であるから、身の破滅は目前に迫っている。そのような状況に陥ってしまった人を、誰も救けようとはしない。自業自得である…と孔子は評します。
肝心なのは、そういった困難な状況に至る前に、大難を小難に転じるべく、変化が兆しの内に手を打っておいて、沢水困のような厳しい時を無難にやり過ごすこと、これが易経を活かす具体的な方法として提示します。
易経に根差す運命学の根本は、己の立ち位置を認識することです。今自分が置かれている状況、何が手にあり、何が不足しているのか。これは四柱推命も、五行易、九星気学等々、自身の得意、不得意を知り、運氣の強弱を知り、その上で取るべき行動を模索するもので、「敵を知り己を知らば百戦危うからず」の孫子の兵法にも通じるものです。
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