易経「繋辞下伝」を読み解く28
子曰く、君子はその身を安くして後に動き、その心を易(やす)くして後に語り、その交(まじ)わりを定めて後に求む。君子はこの三者を修(おさ)む、故に全(まった)きなり。危くしてもって動けば、民与(くみ)せざるなり。懼れてもって語れば、民応ぜざるなり。交わりなくして求むれば、民与せざるなり。これに与することなければ、これを傷(やぶ)る者至るなり。易に曰く、これを益することなし、あるいはこれを撃つ、心を立つること恒(つね)なし。凶、と。(繋辞下伝第5章第13節)
「子曰く、君子はその身を安くして後に動き、その心を易(やす)くして後に語り、その交(まじ)わりを定めて後に求む。君子はこの三者を修(おさ)む、故に全(まった)きなり。危くしてもって動けば、民与(くみ)せざるなり。懼れてもって語れば、民応ぜざるなり。交わりなくして求むれば、民与せざるなり。これに与することなければ、これを傷(やぶ)る者至るなり。易に曰く、これを益することなし、あるいはこれを撃つ、心を立つること恒(つね)なし。凶、と。」
「孔子はいう、君子は自分の身を安らかにして後に動く、自分の心を平らかにしてその後に語る、相手と交わりを深く、強固にしてから後に求める。
君子はこの三つのことを自身の身に修めるている。だから己の本分をまっとうすることができ、その身に害が及ばないのである。
もし反対に、未熟であり信に置けない状態で動いても、人々は付いてこない。
自信が無くびくびくしながら語ると、人々には伝わらない。誠意がないのに人に求めても、人々はこれに反応しない。仲間もなく孤立しているような者には、必ず自らを傷つけ害する者が現れる。
「風雷益」の上爻は言う、”他人に供与することなく、自ら貪り時として祭儀の心を以て相手に接する、このような恒常性のない心の持ち方は言うまでもなく凶である”と。」
“君子の道は『独りを慎む』”
己の欲せざるところは人に施すこと勿れ (論語・衛霊公) 利に依って行えば怨み多し(論語・里仁)
実生活においてもしばしば引用される論語の一節です。これらの孔子の想いは論語の前の著作である「大学」において「君子は独りを慎む」の一節に集約されます。
孔子の言言う“ その身を安くして ”とは、易経の摂理に通達しその原因と結果という因果を悟れば,これは自信へとつながる。
その自信、確信をもってそれを相手に語るのであれば、相手もまた安心感、信頼感を以て君子にその身をゆだねるであろうし、その言葉に従います。相手に誠意以て尽くすから、相手も信頼して交誼を深くします。
鑑定を行う者の戒めとしたい一句。自身、鑑定を以てその人の未来や行動を束縛する物ではなく、占断、鑑定はその人の背中をそっと押すものでありたいと考えているところです。人の心の機微に触れる機会が多いだけに、甘い言葉だけではなく時として「凶」と厳しい言葉を以て伝えなければならないことも多いのです。
但し、厳しい言葉だけでは悩み事で頑なになっているそのお心をほぐすことができませんから、その辺り整体師が凝りをほぐすように、厳しさの中に温かみのある言葉や心を以て相手にお伝えすることを心掛けています。
例えその答えが凶であっても、“○○してはならない”という警告めいた言葉ではなく、“占断は必ずしもあなたにとって都合が良い結果ではなくても、取るべき方法、進むべき道はあります”の様に、少しでも相談者様が前向きに、お帰りになる時は、少しだけ背中が伸びてお帰りになれるように、そのお伝えすべき言葉を慎重に選びます。
”君子は労謙す”
ところで、孔子はその弟子たちに、“君子の道はまずその『独りを慎む』”ことであるとその第一歩を指し示しています。
いわゆるその意(こころばせ)を誠にするとは、自ら欺く毋(なき)なり。 悪臭を悪(にく)むが如く、好色を好むが如し。 これをこれ自ら謙(こころよく)すと謂う。 故に君子は必その独りを慎むなり。(大学)
易経の「地山謙」三爻に「労謙す、君子終わりあり、吉なり。」とあります。君子たるもの成果を上げてもそれを周囲に誇らず、地位が上がっても謙虚さを失わない。この様であれば言うまでもなく吉…と爻辞はのべるのですが、孔子はまだまだそれでは足りないとはるか高みを指し示します。
君子、その誇らず、謙虚さを失わないということを、「人為」として意識しているようではまだまだである。易経の陰陽の作用は、その己の行為を周囲にひけらかしたり、その行為の結果を誇ったりしない。ただただ無心に陰も陽も「生成化育」という目標に向けて、己の本分を尽くすように、聖人を目指す君子もまた“ 君子はその身を安くして後に動き、その心を易(やす)くして後に語り、その交(まじ)わりを定めて後に求む ”の三つを、ごくごく自然にふるまう様であらねばならない。
故に易経とはまず感じ(沢山咸)その上でその実感の積み重ねを経験とし(雷風恒)、それらを繰り返し実感、実地を積み重ねることで人徳を形成する。時として、実利よりも周囲への供与が優先させられる事もある(山沢損)、しかしそれらも含めごくごく自然体でそれを行えるのであれば、言うまでもなく君子であり、同時に聖人の域に達している…と孔子は考えていたはずです。
大学の一節「悪臭を悪(にく)むが如く、好色を好むが如し。」人々が悪臭を嫌い、美しい物を好むように、ごくごく自然に “ 君子はその身を安くして後に動き、その心を易(やす)くして後に語り、その交(まじ)わりを定めて後に求む ” のようにふるまうことを「 君子は必その独りを慎む 」と集約する。
この節を以て第5章を閉じますが、繋辞下伝の核心ともいえる易経の心に通じた孔子の解釈。その内容は平易でありながら、その道は実に長く険しいものです。
コメント