方広寺鐘銘事件は秀頼の呪いだったのか?
歴史の謎に「五行易」で迫る。
本日は、大坂冬の陣に発展、豊臣家滅亡のきっかけとなった「方広寺鐘銘事件」の謎に迫ります。
秀吉の死後、豊臣家を継いだ秀頼は、寺社仏閣の保護、再建に尽力したといわれています。
これは1585年近畿地方一帯を襲った「天正大地震」、1596年の「慶長伏見大地震」や長く続いた戦乱で荒廃した寺社仏閣の復興と、豊臣家の財力と権力の誇示という二つの側面があったようです。
父・秀吉の遺業を継承していきます。戦乱で荒廃していた寺社の復興も、秀頼が特に力を入れていた事業の一つでした。寺社を復興させることにより、民心を摑み、社会を安定させるとともに、権力者としての力を誇示しようとしていたものとみられます。
歴史人
徳川家康は1603年に武家統領の最高位”征夷大将軍”となり、徳川幕府を開闢していましたが、秀頼は父に倣い、「関白」の位を抱くことで、家康よりも上位の権威を有し、やがては徳川家も従わせる…そんな戦略を描いていたのでしょうか?
一方でそんな最中に発生したのが「方広寺鐘銘事件」。
大仏・大仏殿の竣工により落慶供養を待つばかりとなった慶長19年(1614)、梵鐘の鐘銘が問題となりました。梵鐘には多くの文字が刻まれていましたが、そのうちの「国家安康」・「君臣豊楽」という8文字を徳川家康から詰問されてしまったのです。文字通り解釈すれば、国家が平和で、君主と臣下がともに豊かな暮らしを楽しむことができるように祈願したものとなります。しかし、「家康」という実名を断ち切り、「豊臣」だけが君主として楽しむという解釈も可能です。実際、そのように解釈した家康から詰問されたわけです。
歴史人
梵鐘の銘文を選んだのは京都の名刹、南禅寺の高僧、文英清韓(ぶんえいせいかん)。もちろん梵鐘に刻む銘文を秀頼が全く知らなかったことは考えられません。
「国家安康 君臣豊楽」の銘文は、家康のなを「●家×康」と分断し、一方で豊臣家は栄えると読める一文は物議をかもし、家康がと豊臣家に詰問したことは歴史に刻まれた事実です。
しかし、その問題となった梵鐘はそのまま遺棄されること無く今に残っていますから、このあたりから「家康の言いがかり」「豊臣家との開戦の口実」と歴史では位置付けられています。
一方で、大坂冬の陣(1614年)、翌1615年の夏の陣で豊臣家の滅亡を見届ける様に、その年に家康は亡くなっています。老齢な家康の寿命が尽きることを豊臣家側が願っていた面は否定はできません。
その上で敢て「国家安康」の銘文を刻むことに許可を与えたのでしょうか?
占的「方広寺の銘文は家康に対する呪いだったのか?」
立卦及び卦象
本卦「雷火豊」、之卦に「沢雷随」を得ました。
本卦・豊は豊臣家を彷彿させる意味深な得卦。勢いのある卦ですから、豊臣家の繁栄を願う当時の秀頼やその母である淀君の心内が卦に現れたかのようです。
之卦は「従う」で、結果大坂冬の陣で、豊臣家が徳川家の軍門に降った様子を易の卦は示します。
用神は”呪い”ですから官鬼で取ります。そして権力者である徳川家康を五爻、それに応じる二爻を豊臣秀頼とします。
その二爻が官鬼を帯びました。ただし月建からの作用はなく、日辰の未から冲を受けます。しかし土行同士の冲なので朋冲で、剋の作用は伴いません。
そして同じく日辰の未から合されて合起する四爻、これが銘文を考案した文英清韓(ぶんえいせいかん)
ただし、二爻も四爻も月建の作用を伴いませんから、家康の死を願う気持ちはあったかもしれませんが、呪いとまでは言い切れません。
一報五爻の家康ですが、月建に比和、日辰から土・生金と生を受け発動して進神に化す。
征夷大将軍を名乗り、幕府の権力基盤を固めつつあった様子です。
一方で空亡していますから、自身も老齢で士気を悟っていたのでしょう。対する二爻は青龍を帯びるので若者である秀頼です。
銘文は呪いだったのか?そして事件の黒幕は…?
易の答えはYESでもありNOでもあります。
官鬼を帯びる日辰から合起する四爻、暗動する二爻。「そうなればいいな」…ぐらいのニュアンスで、家康に呪い殺そうとは本心から思ってはいなさそうです。
おそらく、一番家康の死を望んでいたのは淀君です。
三爻の朱雀は女性の象意。これを淀君とします。三爻の亥(水)は月建の酉から生を受け旺相。ここから動機は十分で、亥(水)は五爻の申と「害」の関係にあります。
すなわち秀頼を豊臣家の主として、並びに武家の統領として持ち上げていくには家康の存在が邪魔です。
卦身が上爻の官鬼に現れていますから、家康亡き後秀頼を徳川家よりも上の地位に押し上げ、豊臣家の天下を築く、ここに淀君は執念を燃やしていたと考えます。
その亥が官鬼の辰を化出します。辰は申子辰(水局三合)の墓にあたり、家康(申)が墓に入ることを願う淀君の本心。
三爻は発動して四爻を水・剋火と剋す形ですから、淀君が南禅寺の文英清韓に、なにか家康に対する呪いの文言を考えろ…と命じたのではないでしょうか?
そして文英清韓を表す之卦に同じ兄弟の亥(水)が現れていますから、命ぜられるままに文英清韓が従った様子。但しあからさまに死を願う文言を刻むわけにはいきませんから、国家繁栄を願う一文として「国家安康 君臣豊楽」の文言を考案した。
又秀頼も、母・淀君から銘文の主意を聞いていたはずです。
母の言うことでもあるし、まさかその一文で家康が呪い殺されることもあるまい、一方でそうなったらそうなったで棚から牡丹餅…と、安易にその文言を許諾した…これが事件の背景ではないでしょうか?
一方で五爻は官鬼から剋を受ける兄弟ではなく、生を受ける父母を帯びています。
銘文を知った、あるいはその背景に込められた淀君の執念を老獪な家康は察知。ならば之を奇貨として豊臣家との開戦の口実とした…それは歴史が記録として残す通りでしょう。
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