「五行易」の理論、仕組みを通解した古典のテキストに『黄金策総断千金賦通解』があります。
これは明王朝を創立した朱元璋の軍師を務めていた劉伯温が著したもので、在野の雑占法等混在していた「五行易」の理論を要不要に再度整理したもので、「五行易」を志す占者必読の書となっています。
本記事は、日本の「五行易」中興の祖である九鬼盛隆著の「断易精蘊」をもとに、現代文に再度訳を試みるものです。尚、注釈として易照の解釈を追記しています。
- 『黄金策総断千金賦通解』
- 「動静陰陽は、反覆して変遷す」
- 「万象の紛紜と雖も、須く一理にして而して融貫すべし」
- 「夫れ人には賢と不肖の殊なるものが有り。卦には“過”(過ぎたるもの)と“不及”(及ばないもの)が有り、“太過”太いに過ぐる者は之を損すれば斯に成り、“不及”及ば不る者は之を益すれば即ち利あり」
- 「生扶拱合なるは時雨が苗を滋す」
- 「尅害刑冲なるは、秋霜が草を殺すがごとし」
- 「長生、帝旺は争如たり、金谷の園」
- 「死、墓、絶、空(空亡)、乃ち是れ泥犁の地」
- 「日辰を六爻の主宰と為し、其の頂(項羽)を滅し以て劉(劉邦)を興すを喜ぶ」
- 「月建は乃ち万卦の提綱、豈桀を助けて而して虐を為す可けんや」
- 「最も畏れる者は歳君、静に宜しくして而して動くに宜しからず」
- 「最も要する者は身位、扶を喜び傷を喜ばず」
- 「世を己と為し、応を人と為し、大いに契合に宜し」
- 「動を始と為し、変を終と為す、最も交争を怕る」
- 「応位傷に遭わば他人之事に利あらず、世爻制を受ければ、豈自己の謀に宜しからんや」
- 「世応倶に空(空亡)ならば、人に准実無し」
- 「内外競発すれば事必ず翻騰す」
- 「世或いは交重せば、両目にて馬首を顧瞻す。応もし発動せば、一心を猿攀に托するに似たり」
- 「用神に氣有り他故無ければ作す所皆成る。主象(用神)ただ存するも更に傷を被らば、凡そ謀遂げず」
- 「傷有らば救いを待つ」
- 「故無ければ空とする勿れ」
- 「空、冲に逢うて而して用あり」
- 「合は破に遭うて以て功無し」
- 「空自ら空に化すれば、必ず凶咎を成す」
- 「刑合剋合、終に乖淫を見る」
- 「動は合に値たれば而して絆住す」
- 「静は衝を得て而して暗興す」
- 「墓に入らば剋し難し」
- 「旺を帯ぶれば空に匪ず」
- 「助有り扶け有れば、衰弱休囚も亦吉」
- 「生を貪り合を貪り、刑冲剋害皆忘る」
- 「衰旺を別かち以て剋合を明らかにし、動静を弁じ以て刑冲を定む」
『黄金策総断千金賦通解』
「動静陰陽は、反覆して変遷す」
動とは発動する爻で、(本卦、之卦を見比べた時に)陽爻(—)は陰爻(- -)に、陰爻(- -)は陽爻(—)に変じる物を「動爻」という。静は安静の爻で(本卦、之卦を見比べた時に)陽爻(—)、陰爻(- -)の変化の無い物を「静爻」という。発動する動爻の本卦の爻を「本爻」といい、之卦の爻を「化爻」というが、「反覆変遷」とは、発動する動爻の化爻が本爻に及ぼす「回頭の生」「回頭の剋」などの諸作用を指す。
もし化爻が本爻を「回頭の生」と生じたり、本爻と化爻が支合の関係となったり、進神に化したり、長生に化す変化を「好変」といい吉象である。
もし化爻が本爻を「回頭の剋」と剋したり、本爻と化爻が支冲の関係となったり、退神に化したり、墓に化したり、絶に化す変化を「壊変」といい凶象である。
※本爻と化爻の関係が合となるのは、「爻の合住」で近代五行易では好変とは見做しません
「万象の紛紜と雖も、須く一理にして而して融貫すべし」
占的は緊急のこと、長期にわたる変遷のこと、国家の一大事、個人的な問題、天氣、病占等さまざまであるが、現れる卦象には必ず何らかの法則、妙理があり、占者はそこより物事の吉凶、帰結を読み解くのである。
※(注)吉凶の判別がつきにくい卦象ほど、占的が絞り込めていなかったり、勝敗をめぐる立占であれば接戦、引き分けであったり、相談者の心中が言葉とは裏腹に揺れ動いている場合があります。判断が難しい卦象が出た場合は、もう一度占的を絞り込む、あるいは占的を反対の問いに直して再占することが望ましいでしょう
「夫れ人には賢と不肖の殊なるものが有り。卦には“過”(過ぎたるもの)と“不及”(及ばないもの)が有り、“太過”太いに過ぐる者は之を損すれば斯に成り、“不及”及ば不る者は之を益すれば即ち利あり」
易の本質は“中庸”にあり、(例えば用神が空亡し月日から剋冲を受けているような時、忌神が発動しなおかつ仇神も発動し忌神を生じるような時)“太過”のような場合は、かえってこれを抑え、及ばない者を扶け中庸の調和を保とうとする。
大剛は挫折あり、衰弱は救いを得る…これが易の妙理であり、占者はその神意を見落としてはならない。物事は行き詰まれば必ず変化し、器一杯に物を満たせば溢れ零れ落ちるように、例えば重病人の病氣を占って、目の前の瀕死の重病人の用神が月日の生を受け、発動して回頭の生に化したり、原神の生を受けるような時は「大吉、病は癒える」と判断するのは誤りである。
むしろ現実的に考えればいよいよ死期が近いと判断すべきである。むしろこのような病人に対し、用神が発動して回頭の剋になったり、冲に化したり、むしろ安静で月日の作用がない…ような時が、「快癒の象」と見るべきである。
※(注)「太過」「不及」を分けて解説していますが同じことです。用神(あるいは忌神)が必要以上に生じられている場合を「太過」といい、月日に剋を受けているところをさらに爻に剋される状態を「不及」と言いますが、どちらも「(吉凶の)太過」と統一した方がすっきり理解できます。占った物事に対し、理論で判断するよりも直感から感じる違和感に神機は宿ります。この直感を磨くことが上達の秘訣でしょう
あるいはこれに反し、病人の用神が安静で月日に休囚しており、日辰の絶運であるような時、もはや必死の象と見るのが普通であるが、このような時に原神が発動して用神を生じるような時は「絶処逢生」であり、枯れ朽ちる寸前の草木が雨を得てたちまち樹勢が回復すると同様に、このような時は奇跡的に快癒に向かう…と判断できる。
古典でのこの節の解釈は、どの解説もおしなべて著者の劉先生の真意を取り違え、あるいは諸々の法則を用いて曲解したり、あるいは用神多現や伏神するという例を挙げて解釈するようなことは、劉先生の真意を理解していないと言わざるを得ない。
「生扶拱合なるは時雨が苗を滋す」
月日の帯びる五行、あるいは卦中動爻の帯びる五行から生じられる関係を「生」という。「扶」と「拱」とは「比和」のことであり、例えば用神が子(水)の時に月建や日辰が亥(水)を帯びるような時を「扶」、用神が亥(水)で月建や日辰が子(水)を帯びるような時を「拱」という。「合」とは月建、日辰からの合、動爻からの合の関係、あるいは三合会局を指す。用神の爻が月日や他の動爻の合、三合を形成するような時は、慈雨を得て苗が成長するように諸事吉象にむかう。
※(注)合に関しては、月建からの合と用神を含む三合会局が形成される場合を除き、日辰からの合は必ずしも吉とは判断できません。また卦中他の動爻からの合の関係は、物事の事象を見るには有効ですが、合を受けたから吉と断じるのは誤りの元です。同様に六合卦を得たから吉と断じるのも早計で、断を誤る原因となります。
「尅害刑冲なるは、秋霜が草を殺すがごとし」
「尅」とは「剋」であり、月日が帯びる五行、あるいは卦中動爻の五行より剋を受ける関係を指す。「害」は六害、「刑」は三刑を指す。「冲」は月日及び他動爻から冲を受けることを指す。
例えば用神が卯(木)の時に、月日が申(金)酉(金)を帯びるような時は剋であり、卦中忌神が月日同様に申酉の爻となり発動するような時は、用神の卯(木)は「剋」を受ける。
例えば用神がの時に、月日が巳(火)を帯び、また卦中に発動する巳(火)の爻があれば、用神の寅(木)は「害」を受ける
例えば用神が寅(木)の時、月日が巳(火)又は申(金)、卦中の動爻が巳(火)、又は申(金)で月日及び動爻を含め「巳(火)、申(金)」がそろう時は「三刑」が成立する。(同様に用神が戌(土)の時、月日が丑や未を帯びたり卦中動爻で丑や未が揃う時も同様に三刑となる)
例えば用神が寅(木)である時に、月日が申(金)であったり卦中の忌神が申(金)で発動するときは、用神は「剋」と同時に「冲」を受ける。月建からの冲は「月破」であり、日辰からの冲は「冲散」あるいは「暗動」する。
その作用の強弱は剋>冲>刑>害である。尚、いずれも爻からの作用は、相手の爻が動爻である場合に限る。世爻や用神が月日や他の爻より剋や冲、刑や害を受けるような時は草が秋の霜を受けて枯死するように、諸事凶象に向かう
※(注)「害」については吉凶占断においてはほとんど験を観ませんので無視してしまって構いません。三刑については、用神が衰弱時にこれを伴うと凶意が強まります。それ以外は三刑が成立したから「凶」と断じるのは早計でしょう
「長生、帝旺は争如たり、金谷の園」
12運の長生及び帝旺を解説する。
例えば用神が午(火)で、占日が寅日であれば用神午(火)は「日辰に長生する」といい、占日が午日であれば「日辰に帝旺」という。
例えば用神が午(火)で、発動して寅(木)に変化すれば「長生に化す」といい、用神が寅で発動して午(火)に変化すれば「帝旺に化す」という。
長生は漸次その勢いは伸長し、帝旺は目下隆盛を極めるが時の経過とともにその勢いは凋落する。長生は五分咲きの桜(争如たり…先を争って咲こうとする様)、帝旺は満開の桜である(金谷の園…楽園、満開の花園)
※(注)長生については吉凶の判断よりも事象や物事の経過で見る機会が多いでしょう。帝旺については用神と日辰が同じであれば帝旺というよりも「日併」ですから無用の解釈です。帝旺に化すも実占で吉凶の判断に使用することはありません。ただし化爻が日辰と同じ地支に変化する場合は占断の重要なポイントを指すことが多いです
「死、墓、絶、空(空亡)、乃ち是れ泥犁の地」
12運の死、墓、絶と空亡を解説する。
例えば用神寅卯であるときであるとき、日辰が午日であれば用神は日辰に死」であるという。未日であれば「用神は日辰に対し墓」である。申日であれば「用神は日辰に対し絶」である。空亡は旬空のこと。「甲子」の旬であれば戌亥が空亡である。
発動する爻が上記に該当する爻に変化すれば「死(墓絶空亡)に化す」という。
いずれも衰弱運と判断し、その爻は活動力が弱まり用神これを伴えば諸事凶象に向かう。ゆえにこれを「泥梨の地」と形容する。泥梨とは地獄の名称で前節の金谷の園に対する文法上の形容表現である。
※(注)「死」については病占以外その占験の例を観ません。絶運は「絶処逢生」の対象となるか?の判断、「墓」「空亡」については事象や応期にしばしば対応するので無視できません。吉凶よりも事象や応期に多用します。
「日辰を六爻の主宰と為し、其の頂(項羽)を滅し以て劉(劉邦)を興すを喜ぶ」
日辰は占断における断法諸機関の中で最も作用が重い。
例えば旺相(月併したり、月建から生や比和、あるいは卦中動爻から生を受ける)の静爻が日辰から冲を受ければ「冲起暗動」し、衰弱爻(月破や月建の剋を受けていても)も日辰を帯びれば旺相となり(日併)、忌神に剋される爻が日辰から生を受ければ「剋処逢生」となり、月破に遭っている爻が日辰を帯びたり生を受ければ破れず、伏神が日辰と同じ地支を帯びれば「併起」となる。一方で動爻の狂暴を冲制し(動爻が日辰の冲を受けると冲散となる)、墓絶空亡の爻も日辰から生を受ければいずれの効果も無効となる。ゆえにこれを「六爻の主宰」と称するのである。
古の項羽と劉邦が天下の覇を争った時、劉邦は項羽に敗れそうになったが、天運を得て巻き返し項羽を圧倒した。天運とはまさに日辰の作用である。
「其の頂(項羽)を滅し以て劉(劉邦)を興すを喜ぶ」とは日辰の作用を、一時天下を制する勢いを誇った項羽を、天の時を得た劉邦が巻き返した史実を例に挙げ、その作用の峻烈であることを表現したものである。
「月建は乃ち万卦の提綱、豈桀を助けて而して虐を為す可けんや」
月建の作用は日辰同様に占断上断法諸機関に大きな影響を及ぼす。
占った月内であれば、その剋冲生合の作用は日辰と同格であるが、月が過ぎればその作用は漸次減少する。ただし月建の冲は日辰の冲と異なり爻の動静にかかわらず破る事を専らとし、その作用は厳格である。ゆえに「万卦の提綱」と称し、日辰と並びその作用の大きいことを表す。「豈桀を助けて而して虐を為す可けんや」とは、占ってもし忌神が月建の生を受けたり、比和して発動するような時、その剋害は大きいことを、中国歴史上の暴君として知られている夏王朝の桀王、殷王朝の紂王の暴虐を例に挙げて、その作用の激烈であることを表現したものである。
※(注)日辰、月建の作用は一説によれば6:4とも7:3とも言われています。いずれの作用も卦中の爻からの作用を上回り、月建から生を受けている用神が忌神からの剋を受けるような時も、月建の作用を上とする判断するのが妥当でしょう。ただしこの爻が日辰から剋や冲を受ける場合は、月建の生の作用を上回ります。 台湾断易においては、月建の作用は過去や現況を表し、日辰の作用は物事の帰結に作用すると解釈しています。房主もこの解釈を用います。
「最も畏れる者は歳君、静に宜しくして而して動くに宜しからず」
歳君とは太歳のことで年が帯びる地支、年支のことである。
歳星は日辰月建を統べることから天子の象である。太歳は日々の占事に用いることはないが、年運や数年等長期にわたる占事で、太歳から生を受ければその占事には大いに吉象である。用神が太歳を帯びれば、その年に慶事があり一方で忌神がこれを帯びればその年に凶事があることを心配する。ひとたびその作用を及ぼすという事であれば、その影響は甚大であるがために、安静を宜しとし発動を宜しからずという。ある書物(卜筮正宗の事)では、「畏る(おそる)」を「悪む(にくむ)」と解釈しているが、これは妥当とは言えない。
※(注)太歳については年運や5年、10年といった長期にわたる占事でなければほとんど用いません。ただし年運で世爻や用神が太歳を帯びるような時は、良い意味でも悪い意味でも激動の年となることは間違いなく、ここに発動を伴えば生死にかかわるような重要事件に遭遇するということと解釈できるでしょう。易の中庸の思想を美とするがゆえに、安静が宜しです。
「最も要する者は身位、扶を喜び傷を喜ばず」
「身」とは「卦身」のことである。卦身は卦に現れる物と現れない物があるが、現れる物はその占う目的がはっきりと定まった物であり、現れないときはその目的がはっきりしていない、あるいは求占者の問いに心中には迷いがある。卦身が二つ現れる卦もあるが、その場合は選択肢が複数あったり占事対象が複数あると推断できる。いずれも卦身が月建日辰、他動爻からの生扶生合を吉とし、冲剋を嫌う。また、求占者の相談、占事内容が不明な時その内容を卦身の付く五類より推断したり、卦身をもって人物の容貌や物品の形状を推断する
※「身」を「卦身」と解釈(卜筮正宗も同じ解釈)していますが、「世爻」のことであると考えます(増冊卜易は世爻と解釈)。卦身は事象を見る時には重視しますが、その旺衰で直接的な吉凶の判断はしません。むしろ求財占の財爻と世爻の関係等、「身」とは求占者自身を指す「世爻」ととらえ、その生扶生合と剋冲は占断の重要な判断基準となります。従って、この節は「卦身」では無く、世爻の事で、「占断上最も大切なのは身位(世爻)で、扶を喜び傷を喜ばず」であると解釈します。尚、本文の卦身に関する解説はそのまま文脈通り捉えて問題ありません。
「世を己と為し、応を人と為し、大いに契合に宜し」
世爻は身命占であれば用神となり、出行占であれば出発地となる。一方で応爻は自分に対し相手であり、世爻を主とすれば応爻を客となし、出行占であれば応爻を用神として目的地と為す。自身とかかわりのない特定の人を占う時は応爻が用神となる。
自分に対して相手、出発地に対して目的地、味方に対し敵というように見立てるので、相冲、相剋よりも相合、相生の関係である方が望ましい場合が多く、ゆえに「大いに契合に宜し」という
「動を始と為し、変を終と為す、最も交争を怕る」
この節は世爻、応爻の動変だけではなく、卦中全体の爻の変化について解説したものである。
「動」は動爻のことで、動爻は卦中他の爻へ生剋合冲の作用を及ぼす。「変」は化爻のことで化爻は本爻への「回頭の生、回頭の剋、長生に化す、絶に化す、墓に化す、空亡に化す、進神、退神」の作用であり、「最も交争を怕る」とは用神が発動し「回頭の剋」に化したり「墓絶空亡」に化するを嫌うためである。
古典ではこの説を前節の続きとして一続きで解釈しているが、それぞれ別個の解説としなければ解釈を誤る。文章表現のみを見て対句と判断するは通じるものが無い。ゆえに世爻、応爻の事として解釈することは、本当の意味を理解できない誤りである。
※(注)卜筮正宗を含め、解説書によっては「最も要する者は身位、扶を喜び傷を喜ばず。動を始と為し、変を終と為す、最も交争を怕る」と続けて、世爻応爻の生剋合冲、あるいは回頭の生、回頭の剋などの諸作用を論じているが、断易精蘊では世爻応爻に限らず、全ての発動爻のことを指すとあり、九鬼訳解釈を是とします
「応位傷に遭わば他人之事に利あらず、世爻制を受ければ、豈自己の謀に宜しからんや」
この節で応位と表現しているのは、一般的な用神を代表として挙げている表現で、応爻に限ったものではない。
例えば父母の友人を占う時は父母を用神とし、友人を占うのであれば兄弟を用神とし、子どもや年少者を占うのであれば子孫を用神とし、使用人、雇用者を占うのであれば妻財を用神とする。これらは他人を占うといってもそれぞれの五類の象意に従って用神を選定する。
いずれの例にも属さないか、自身とは関係のない、自分があまりよく知らない人物を占うような時は応爻を用神とする。従って応爻が傷を受けているから、他人が不利であるということは一概には言えないのである。世爻は自身を表す爻であるが、一方で誰かから依頼されて占う時も、その依頼者を世爻とみなすのである。ゆえにもし世爻が傷を受けるような時は、依頼者に不利と断じるべきである。これを「世爻制を受ければ、豈自己の謀に宜しからんや」というのである。
※(注)例えば交渉の行方を占って、世爻が月日の生、または原神からの生を受ける、あるいは応爻が月日の剋を受け他動爻から剋を受けるような場合は、交渉の行方我が方に利ありと判断できるし、逆に応爻が月日の生を受け、他動爻の生を受けていて、世爻は月日や忌神の剋を受けていれば相手に利ありと断じることができます。ただし特定の誰かのことを占うにおいて、用神の選定は五類を優先して考えるべきであり、用神となる五類を差し置いて応爻に傷あれば相手に不利と断じるのは誤りとなります。
「世応倶に空(空亡)ならば、人に准実無し」
例えば相性を占って世爻が空亡であれば自己その人(相手)に対し誠実な想いを抱いていない。応爻が空亡であったなら、相手は自分に対し良い思いを抱いていないか、相手に言行に信頼を置けない様子であろう。世爻、応爻ともに空亡の場合は彼我共に信なく物事は成就しないであろう。
「内外競発すれば事必ず翻騰す」
発動する爻が多ければ、物事の変化は激しく遷移する。内卦の爻、外卦の爻がともに発動するような時は、自身の事、相手の事ともに大きく変動がある。発動する爻が多ければ多いほど、吉凶その他事象を断ずるに難しいが、おおむね物事は反転するような大変化を遂げて結実する。ゆえにこれを「事必ず翻騰す」というのである。
※(注)内卦は自分や自宅周辺、自陣営、自分の応援するチーム等、外卦は相手の事、家の外、外国、自分の応援するチームの対戦相手…のように範囲を広げて推断します。この時世爻が外卦にあっても内卦、外卦の象意は変わらないものとします。(世爻がある外卦が自分の事、自分の周囲の変化と判断しない)
「世或いは交重せば、両目にて馬首を顧瞻す。応もし発動せば、一心を猿攀に托するに似たり」
世爻が発動するならば、馬は左右を同時に見るように物事は自身を中心に動く。一方で応爻が発動するような時は、猿が樹に登ったり枝からぶら下がり下りたりするように、方向性が定まらない…と言う例えを言う。
世爻が発動するときは自己の思慮が定まらず物事は二転も三転もするし、応爻が発動するときは物事は起伏激しく推移してなかなか定まることがない…という解釈であるが、世爻、応爻が共に動くような時、世爻応爻が生合するような時は必ずしもそうとは言えない。つまり剋冲を受けるような凶象の場合において…と条件を付けて解釈すべきであろう。
「用神に氣有り他故無ければ作す所皆成る。主象(用神)ただ存するも更に傷を被らば、凡そ謀遂げず」
この節、前半部、後半部共に同じ意味であり、同内容を繰り返し別々の表現で解説している。
「用神」も「主象」も同義であり占う事の主事爻のことである。例えば、父母や年長者の事を占うのは父母を用神とし、友人を占うのであれば兄弟を用神とし、また人ではなく物を占う時、財貨を占うのであれば妻財を用神とし、土地や家屋であれば父母を用神とするように、これを物爻と呼ぶがすべて主事爻である。「氣有り」とは、時令(月建、日辰)からの生や比和などの作用があるか?を示す。
「他故無ければ」とは、他動爻からの剋冲などの傷害を受けるようなことが無い事をいう。このような場合(用神が月日の生を受けたり、原神の生を受ける時に忌神の発動が無ければ)は物事は成就しやすい。
「主象(用神)ただ存するも」とは、用神が卦中に現れるものの、月建や日辰からの作用がなく、原神の発動も無いような衰弱爻を「無氣」と言う。「傷を被る」とは月建や日辰からの剋や冲(月破)を受けることをいう。このような時は元来体が弱い人が病氣にかかるように、物事を成し遂げる力に乏しく、あるいは物事成就し難いということを表現しているのである。
「傷有らば救いを待つ」
傷とは月日や他の動爻からの剋冲を受ける、あるいは用神自らが伏神、あるいは墓絶空亡するような状況にある場合を指す。
「救」とは用神を救済する機のことで、例えば用神が申(金)であるとき、卦中の忌神の午(火)が発動するような時は凶であるが、この時日辰が子(水)であれば日辰はまず忌神の午(火)を剋するので発動する忌神と家でも用神を剋することができないのである。
あるいは用神が月建に剋されているところに日辰が生を与えたり、日辰に剋されているところに原神が生を与えるのも「救」である。その他用神自ら伏神する時はその値(用神の地支と同じ地支を帯びる日を待つ事)、空亡は出空しあるいは「填実(出空後用神の地支と同じ地支を帯びる日を待つ事)」する時、冲は合を待ち、墓は冲開を待ち、絶は生に逢う時、これらは全て「救」という。このような場合は、始めは障害が多いが時を経て漸次、事が通じると判断する
「故無ければ空とする勿れ」
「故」とは空亡する爻が傷を受けるという意味で、用神が伏神して空亡であったり、空亡の用神が月建から剋を受けるような場合は「真空」であり用をなさないのであるが、空亡であっても月日の生扶があったり原神が旺相であるならば「有用の空亡」であり、出空の填実を待って吉凶に応じる。これを「故無ければ空とする勿れ」というのである。
「空、冲に逢うて而して用あり」
「冲実」のことを指す。用神が空亡して日辰からの冲を受けることを「実す」と言い、爻は空亡でありながら無用とせず、かえって有用な働きを見せるのである。また旺相の空亡爻が日辰の冲を受けると、さらにその力は増大して作用する。これを「空、冲に逢うて而して用あり」というのである。
※(注)近代五行易では、月建、日辰に休囚したり、月破に逢っている空亡の爻、発動している空亡爻が日辰の冲を受けると、いずれも「冲散」と解釈します
「合は破に遭うて以て功無し」
この節は「合処冲(合しているところを冲される)」で事破れることを解説している。
しかしながら、日辰の冲(日冲)と月建の冲(月破)は大いにその作用が異なる。もともと、爻合は両爻和信協力の意味があり、もし冲破を受けるような時は、人間関係においてはその間に穏やかならぬ対立阻隔の情があると解釈するのが一般的であるが、日辰からの冲は、特にその冲に剋の作用(寅申、卯酉、巳亥、子午の相冲の場合)が伴わなければ、あるいはこれを「紛情(モヤモヤした感情、微妙な空気感、隙間風)」と解いたり、あるいは物事が成就する時期を表す応期を示していることがある。しかし月破は冲起、冲実といった作用を伴わず事を破壊する事を専らとするので「功無し」という
例えば卦中に寅(木)と亥(水)の爻があり、いずれかあるいは両方が発動して爻合をしているところを月建が巳あるいは申ならば月破であり合の関係を解消してしまう。月破は冲起、冲実といった作用を伴わず事を破壊する事を専らとするので特に「破に遭ふて功無し」と解釈するのである。
一方で日辰からの冲の場合で「合処逢冲」と解釈すれば、占った日と後日巡って来る値日の冲は別々に考えなければならない。例えば卦中に寅(木)と亥(水)の爻があり、いずれかあるいは両方が発動して爻合をしているところを占った日の日辰が巳又は申ならば之を冲して合の関係を冲開する。これを「合処逢冲」といい寅亥の合を解消する働きをするも、もし占日が巳申日以外であれば、乃ち巳申日をもって冲を受け合の関係を冲開する
「合処逢冲」を、物事が動き出す応期として採用することができるのである。
月破は事の破壊の作用しかないので日辰の冲のように応期を示すことはない。ゆえに特に「破」の文字をこの節に用いたのである。
「空自ら空に化すれば、必ず凶咎を成す」
もし用神が空亡し、発動した場合はすでにその空亡は空亡とみなさない。しかしその爻が発動してさらに空亡に化すような時は、占う事の神機を示すものとして占断上無視できない。このような時は物事は成就し難く、(卦中忌神の発動が無くても)凶事の発生に注意しなければならない。
「刑合剋合、終に乖淫を見る」
「合」は和合の意味である。おおよそ占って用神が月建、日辰、他動爻の合に逢うことは吉象であるが、その合に刑を帯びるような場合、例えば占って用神が申(金)の時卦中に巳(火)の動爻がある場合、あるいはさらに月建や日辰が寅(木)を帯びるならば、巳申の合を帯びる一方で寅巳申の三刑が成立して巳申を刑してしまうので、これを特に「刑合」という。
また用神が子(水)の時に卦中に丑(土)の動爻があるような時は、これを「剋合」という。いずれも初めは和して後に離反する象とみなす。ただし用神が旺相している場合や、三刑を構成する巳の合爻が休囚するような時はあえて合の吉を取り剋や刑の凶意は採らない。弱は強に従い、弱者が権勢に従うのは逃れ難い宿命だからである。
※(注)用神が合を受けるということは必ずしも吉ではありません。発動する爻が日辰から合を受けたり、自ら合に化すは「合住」でありかえって行動を阻害する要因となりますし、日辰からの「合起」も合を貪り本来の目的を見失うという凶に近い解釈となります。三刑についての解釈も古典と近代五行易では大きく異なることは「尅害刑冲なるは、秋霜が草を殺すがごとし」の項の注釈での指摘の通りです。
「動は合に値たれば而して絆住す」
卦中に発動の爻があれば、その爻は卦中の他の爻に生剋合冲の作用を及ぼすことができる。この時、さらに卦中に発動する爻があって爻合するか、日辰が発動する爻と合する時は「合住」といいかえってその爻の発動を束縛する。従って合された発動爻は、他爻への生剋の作用を及ぼせなくなるのである。
これを「合住(絆住)」という。合住を解くのは日辰の冲を待たねばならず、しばしば応期を示す。日辰からの合や爻自ら合に化すは、本爻を冲する期日に、爻から合される時はその相手の動爻を冲する日に合が解かれる。
「静は衝を得て而して暗興す」
「衝」は「冲」のことで、この項は静爻が日辰および他動爻からの冲受けて冲起暗動することを指す。作用は日辰の方が大きく、爻冲の暗動は小さい。また動爻への日辰の冲は「冲散」となるが、爻冲による冲散の作用はない
暗動の作用は、旺相の静爻に限り月破を受けたり月日に休囚している静爻は冲散となる。
※(注)暗動は動爻と同じ扱いをしますが、暗動する爻から卦中他の爻への作用は無く、化爻もありません。また用神、原神、忌神の暗動はほぼ静爻扱いで、吉凶の判断よりも事象を見るに用います。
「墓に入らば剋し難し」
「墓」とは12運勢の「墓運」を指す。これを特に「墓庫」と呼び、用神や忌神がもし月建、日辰の墓運にあたればその力は抑制される。
例えば丑日に占って、用神が寅(木)で忌神が酉(金)で発動を見るも、丑日は金局の墓運であるがために忌神を墓庫に収め、酉(金)の忌神は用神を剋せないのである。また、占日が丑日でなくとも、忌神の酉(金)が発動して丑(土)を化出して墓に化したり、卦中に丑(土)の動爻がある場合も忌神を墓庫に収めると称して、忌神は用神を剋せないのである。
一方で未日に占って、用神が寅(木)で忌神が酉(金)であるとき、忌神は発動しても用神寅(木)が日辰の墓運にあたり入墓するので、忌神の剋を受けない。これに反し、用神が発動して他爻を剋すような時は用神が墓にあたるため、この作用を及ぼせないのである。ゆえにこれを「墓に入らば剋し難し」というのである。
このような場合、いずれも墓を冲する(墓爻、あるいは墓運の日辰を冲する日)墓庫冲開を受け、用神は忌神の剋を受けたりあるいは他爻への作用を及ぼせるのである。また、入墓した場合は忌神の剋を受けない一方で、原神からの生や他動爻からの合の作用も受けないのである。
※(注)用神が墓にあるとき忌神は用神を剋せないのですが、「発動する忌神」が日辰の墓運にあたるから用神を剋せないと解釈するのは誤りで、凶意は軽減されるものの多少の凶作用は伴います。用神が墓であれば忌神の剋は受けないのですが、占時そもそも用神が墓運にあたる事自体が凶象であり、忌神が剋せないから吉であると解釈するのも誤りと言えるでしょう。
「旺を帯ぶれば空に匪ず」
旺とは時令(月建、日辰の生を受けたり比和する)を帯び、勢いが盛んな旺相の爻を指す。ゆえに旺相の爻が空亡に逢っても空亡とは見做さない。もしこの時その爻が静爻ならば、日辰がその爻を冲すれば、之を冲実と言いその爻は動爻と同じ扱いをする。旺相の空亡爻が後日冲を受ける日に至っても同じ作用をする。また旺相の空亡爻が空亡を脱し、その爻が帯びる地支と同じ地支を帯びる日を「値日」と言い、これを「填実」という。いずれも空亡であっても空亡とみなさないのである。
「助有り扶け有れば、衰弱休囚も亦吉」
この節は用神の爻を指して解説している。
用神が月建や日辰に休囚していて無氣であれば諸々凶象とするも、もしこの爻に原神の発動が有ったり、月建の剋を受けている用神が日辰から生を受けたり日辰と比和するような時は旺相の用神とみなす。これを「助けあり」「扶けあり」と称し、衰弱の用神もたちまち有用な働きを成すことを意味する。例えていうならば、卑賎在野の無名な人も、ひとたび有力なスポンサーの助力を得れば、たちまちその盛名が世に轟くようなものである。
「生を貪り合を貪り、刑冲剋害皆忘る」
この節もまた用神を中心に解説している。
もし用神が忌神の剋を受けるような時は凶象と言えるが、卦中忌神が発動するとき、原神もまた発動を見れば「接続相生」となり、忌神は原神を生じることに専心する「貪生忘剋」となる。あるいは忌神が発動するとき卦中に忌神と爻合する爻があるならば忌神は爻よりも合を優先する「貪合忘剋」となり用神を剋さない。この作用は刑や冲の場合も同様である。
「衰旺を別かち以て剋合を明らかにし、動静を弁じ以て刑冲を定む」
占った時、用神には必ず月建日辰の旺相休囚の作用を見る。
用神が月建や日辰からの生を受けたり、比和していれば用神は旺相であり、その力は勢いが強い。一方月建、日辰の作用い場合は休囚で衰弱である。ただし旺相乃ち吉、休囚乃ち凶ではなくそこに生剋合冲の関係、動爻静爻の動きも考慮しなければならない。例えば用神が休囚静爻で衰弱、忌神は月日の生扶を得て旺相であっても静爻であれば用神を剋せないのである。一方で忌神が月日に休囚であっても発動するのであれば用神を剋す。これは刑冲の関係も同じで、静爻同士であれば情意は含むが実働はなく、発動するをもって刑冲の作用を断じるのである。これは生合の関係にも言えることである。
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